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プロ野球はみだし録

2度の移籍はトレードではなかった…野村克也「生涯一捕手」の時代【プロ野球はみだし録】

 

南海からロッテ、そして西武へ


南海時代の野村


 プロ野球2位の通算657本塁打を皮切りに、圧倒的な実績を残した野村克也。監督としても名将と呼ぶにふさわしい結果を残した野村だが、現役時代には2度の移籍を経験している。特に最初の移籍は南海(現在のソフトバンク)で四番打者と司令塔を務める攻守の要であり、さらには監督を兼任していた時期だったが、その移籍はトレードではなかった。

「南海ホークスなくして野村克也は存在しない」と振り返る一方、「南海ホークスは好きだが南海球団は嫌い」とも語っていた野村。このとき南海で勃発した“お家騒動”については触れない。ただ、当時においても抜群の実績を誇り、チームの功労者でもある野村が監督を解任され、退任に追い込まれた事実が残るのみ。形としては自由契約だった。

ロッテでは78年の1年間のみプレーした


 新天地は金田正一監督の率いるロッテ。ちなみに、この野村の解任に反発して移籍を志願したのが、リリーフエースとして復活した左腕の江夏豊と、打線の中軸に成長していた柏原純一だった。江夏は広島へ金銭トレード。柏原は日本ハムへの交換トレードが決まるも、そこから柏原が日本ハムへの入団を拒否するなど混乱したが、最終的には承諾した。江夏は広島で初の日本一に、柏原もチームが日本ハムとなって初のリーグ優勝に貢献しているから、野村の全盛期に黄金時代を謳歌していた南海の失速も当然だったかもしれない。

 一方、「生涯一捕手」を掲げた野村は1978年、ロッテでプロ26年目を迎え、出場機会が激減。1年で西武へ移籍となったが、これも自由契約だった。「ボロボロになるまでやりたい」と現役の続行にこだわった野村と、埼玉の所沢へ移転した“新球団”西武の「全国区の有名選手が欲しい」という思惑が一致した結果ともいえる。

西武では79、80年にプレーしてユニフォームを脱いだ


 西武では前人未到の通算3000試合出場に到達しながらも、全盛期ほどの出場機会を得られなかった野村だったが、前途有望な若い選手の獲得にも熱心だった西武にあって、野村の若手たちへの影響は計り知れない。野村は80年いっぱいで現役を引退したが、南海が低迷に沈んでいったのとは対照的に、西武は80年代に黄金時代へと突入していく。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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