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プロ野球はみだし録

ヤクルト初の日本一も「走れない、守れない」とトレード、近鉄で初優勝と“連覇”した助っ人は?【プロ野球はみだし録】

 

形は2対3のトレードだったが……


ヤクルトで球団初の優勝に貢献したチャーリー・マニエルだったが……


 結果を残しながらもトレードで事実上の放出といえる形となった助っ人については、これまでレオン・リーパチョレックについて紹介してきた。ただ、両者は個人の成績こそ申し分なかったものの、チームが優勝したわけではないのも事実(もともと所属していたチームが弱かった、というのも事実だが……)。一方、それまで1度も優勝したことがないチームを初の快挙に導きながらもトレードで出された助っ人もいた。1978年、創設29年目にして初のリーグ優勝、日本一を飾ったヤクルトで、主砲として39本塁打、103打点と大きく貢献したのがマニエルだ。

 マニエルは来日2年目の77年から真価を発揮した長距離砲。大杉勝男の後を打つ五番打者として活躍したものの、広岡達朗監督の「走れない、守れない選手はいらない」という方針から近鉄へ。形は2対3の大型トレードだったが、当時のトレードに漂うイメージどおり、放出の印象が強い移籍。近鉄も創設からリーグ優勝の経験がないチームだった。ただ、指名打者制が導入されて5年目を迎えるパ・リーグで、マニエルは守備の負担がない指名打者として水を得た魚のように活躍することになる。

移籍先の近鉄でも猛打を発揮した


 西本幸雄監督との邂逅もプラスにはたらいて、翌79年は37本塁打、94打点、打率.324。アゴに死球を受けて骨折、離脱するアクシデントはあったものの、フェースギアを装着して復帰した姿は異名の“赤鬼”そのものだった。近鉄は初のリーグ優勝。本塁打王のマニエルはMVPにも輝いている。

 2年連続で初のリーグ優勝という“連覇”に貢献したマニエルだが、キャリアハイは続く80年だった。MVPこそ新人ながら先発投手のタイトルを総ナメにした日本ハム木田勇に譲ったものの、48本塁打、129打点、打率.325で本塁打王、打点王の打撃2冠に輝いて、リーグ連覇の立役者に。だが、近鉄は悲願の日本一には2年連続で届かず、マニエルも契約で折り合いがつかずオフに自由契約となる。

 移籍したのは古巣のヤクルトだった。すでに広岡監督は去り、武上四郎監督となっていたヤクルトだったが、マニエルは急失速。1年で退団、帰国している。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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