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プロ野球回顧録

中学時代はバスケ部 プロで165セーブを挙げた「松坂世代」の右腕は

 

1年目からクローザーで活躍


ルーキーイヤーからクローザーとしてチームの勝利に貢献した永川


 昨季限りで現役引退した西武松坂大輔を中心に1980年の学年に生まれた「松坂世代」は人材の宝庫だった。村田修一藤川球児杉内俊哉新垣渚久保康友……高校時代に甲子園の舞台で名を馳せていた選手が多い中、この右腕は異質の存在と言える。中学時代はバスケ部。広島で守護神として活躍し、球団新記録の通算165セーブをマークした永川勝浩だ。

 広島県三次市で生まれ育った永川は小学校のときに軟式の少年野球チームに入るが、中学では野球部に入らず、「そのタイミングで家にBS放送が入りまして。父が昔バスケットボールをやっていたこともあり、ブルズのマイケル・ジョーダンなんかを見て興味を持ちました」とバスケ部へ。身体能力が高かったことから他のスポーツ競技にも興味を惹かれたのだろう。

 一般入試を受けて広島新庄高で野球を再開するが、当時は決して強豪校ではない。練習は平日1時間ぐらい。永川は制球難が課題で3年夏の県大会も四球を連発して2回戦で敗退している。目立った実績はなかったが、左足を高々と上げるノーラン・ライアンを彷彿とさせる投球フォームで、長身から叩きつけるような腕の振りから140キロを超える直球が目に留まる。亜大に進学すると、エースの木佐貫洋と共に「ツインタワー」と呼ばれ、3年時から頭角を現す。4年の明治神宮大会・準決勝で完封勝利を飾り優勝に貢献。地元の広島から球団史上初の自由獲得枠として入団し、大エース・北別府学が着けていた背番号20を継承した。

足を高々と上げる投球フォームも特徴的だった


 1年目の03年に新人史上球団最多の25セーブをマーク。06年以降は4年連続25セーブ以上を挙げて不動の守護神の地位を築く。身長188センチの長身から最速153キロの直球、ウイニングショットのフォークで三振奪取能力が高かった。フォーム改造で試行錯誤していたときもフォークが生命線に。打者は球種が分かってもバットが空を切るほどの落差だった。

 09年に球団記録を塗り替えて163セーブに到達。当時まだ29歳で、通算200セーブ達成も時間の問題と思われた。永川は現役引退時に週刊ベースボールのインタビューでこう振り返っている。

「球団新記録(139セーブ目)のときは、聞いていたとは思いますけど、意識は全然してなかったですね。当時はそのまま200セーブ、300セーブとできると思っていたので。今振り返ってみると、165個しか、という感じになってしまいますね。選手生活の早いところで数字を重ねていたので、もっとできたな、という気持ちはあります。09年まではちゃんと仕事をした感じがありますが、その先はしんどかったです。10年の春先に試合中に内転筋を切ってしまって、そこですべてが終わったような気がします」

故障との闘いの果てに


 10年4月1に右内転筋を痛めて登録抹消されると、5月下旬に一軍に復帰したが、内転筋損傷の再発のため6月から長期離脱。ここから故障との闘いが続き、なかなか本来のパフォーマンスを発揮できない。13、14年はセットアッパーで結果を残したが、10年以降に積み上げたセーブは2つのみ。だが、試練ばかりではない。17年に左ヒザの手術を受けてマウンドから遠ざかり、18年6月7日の日本ハム戦(マツダ広島)で743日ぶりに一軍マウンドに復帰。セットアッパーとしてチーム史上初のリーグ3連覇に貢献する。

「あのとき(復帰登板)は感慨深かったですし、周りの人たちの素晴らしさというのを感じましたね。ビデオで見たら、會澤(翼)がチェンジになったときにガッツポーズをしていてくれたり。ベンチに帰ったら、主力の丸(佳浩、現巨人)、田中広輔鈴木誠也たちがわざわざ『ナイスピッチング』と声を掛けに来てくれたり。負けてる試合で、ですよ。『やっぱりこの選手たちは、3連覇するだけの、技術も、人間性も兼ね備えた選手なんだな』と思いました。後輩たちに勉強させてもらったというか、あの試合は僕の野球人生の中でも、最も印象深い試合ですね」

 19年限りで現役引退を終えた。17年間のプロ生活で通算527試合登板し、38勝42敗165セーブ79ホールド、防御率3.46。引退後は広島で投手コーチを務め、今年は二軍投手コーチに。将来を担う投手の育成が期待される。

写真=BBM
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