週刊ベースボールONLINE

プロ野球はみだし録

プロ野球2位の通算596盗塁は「肩を痛めたから投げられない」というウソから生まれた?【プロ野球はみだし録】

 

監督は「だったら外野に回れ」


南海・広瀬は俊足、巧打の外野手だった


 まだホークスが大阪に本拠地を置き、南海を名乗っていた時代だ。その終盤は長く深い低迷の底にあったが、野村克也が監督を退任、退団した後を受けて、監督として率いていた姿に印象を上書きされているかもしれない。ダイエーのコーチも2年だけ務めているが、広瀬叔功が最も輝いていたのは、やはり南海での現役時代だろう。通算596盗塁、さらには通算成功率.829を誇った韋駄天というだけでなく、首位打者となった1964年には89試合を消化した時点で打率4割台を維持していた巧打の外野手でもあった。

 55年に入団した広瀬だが、1年目から走りまくったわけではない。そもそも投手としてテスト入団。春のキャンプで故障したことで、自ら志願して野手に転向した。デビューは2年目で、19試合の出場。ブレークは3年目の57年だ。規定打席には届かなかったが、114試合の出場で25盗塁。翌58年には遊撃のレギュラーに定着して31盗塁を決めた。近年なら盗塁王でもおかしくない数字だが、現在と比べて圧倒的に盗塁そのものが多かった時代だ。まだ盗塁王は正式なタイトルでもなかった。

 状況が一変したのは61年だ。専大から遊撃手の小池兼司が入団。小池は家も近くで、かわいがっていた後輩でもあったというが、広瀬は鶴岡一人監督に“ひと芝居”打つ。「小池のほうが(遊撃の)守備はいい。それで鶴岡監督に『肩を痛めたから投げられない』とウソを言うと、『だったら外野に回れ』って」と広瀬は回顧。遊撃守備は最初から自信がなかったとも振り返るが、対照的に「外野守備のほうが自信もあったし、足や肩(!)も生かせて、チームのためにもプラスになると思ったんで」と言う。

 肩を痛めて外野へ、というのも気になるところだが、どうあれ中堅が広瀬、遊撃に小池という布陣になった南海。広瀬は42盗塁で初めてリーグの頂点に立つと、以降5年連続でトップ。打撃も絶好調だった64年には31連続盗塁成功を含む自己最多の72盗塁を決めて、南海もリーグ優勝、そして最後の日本一に輝いている。ちなみに、このときの広瀬の活躍が、盗塁王がタイトルとなる契機だったともいう。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング