週刊ベースボールONLINE

プロ野球はみだし録

キャンプイン後も契約がまとまらず年俸調停へ。落合博満は「初めてだからやったんです」【プロ野球はみだし録】

 

その差、5000万円


91年3月8日、年棒調停の末に契約更改しナゴヤ球場内で記者会見に臨んだ落合


 34本塁打、102打点で本塁打王、打点王の打撃2冠に輝き、1990年シーズンを終えた中日落合博満ロッテ時代にプロ野球で最多となる3度の三冠王となった強打者だが、このシーズンは打率.290にとどまり、リーグ13位という結果に。前年の89年は「もう一度、三冠王を獲る」と宣言しながらも、打点王だけに終わっていた落合の巻き返しが始まったようにも見えた。だが、オフに“事件”が起きる。

 “事件”といっても、現在では当然の権利として認識されていること。年俸調停だ。この年俸調停は、球団と選手がオフの契約更改で年俸の交渉を重ねても、その金額に納得がいかない場合は調停委員会に判断をゆだねるという制度のこと。それまでは1例だけで、阪神のマックファーデンが72年オフに申し出ているが、日本人の選手では落合が初めてだった。

 球団の提示は2億2000万円だったが、落合の希望は2億7000万円で、その差は5000万円ほど。筆者は見たことがないので実感がわかないのだが、とてつもない差なのだろう。球団は2億5000万円まで譲歩、その差は2000万円となったものの(それでも実感できる額ではない)、落合は譲らず。翌91年は予定どおり春のキャンプが始まったが、それでも話はまとまらなかった。そして年俸調停へ。裁定が下ったのは3月8日で、球団が最初に提示した2億2000万円で確定した。落合の“完敗”だが、会見では会心の笑顔を見せる。

 落合が年俸調停を申し出たのは「日本人の選手として初めてだから」なのだという。目的は調停委員会にかけること。すでに年俸調停という権利は存在したものの、あまり知られておらず、その存在をアピールしようとしたのだとか。実際に落合は“完敗”の提示を、すぐに受け入れている。プロ野球の選手会が労働組合になったのは80年代で、まだ90年代は労使の関係がおおらかで、というより球団と選手の関係では立場的に弱い選手が圧倒的に不利だったのも事実。のちに落合は事前に球団の代表と申し合わせてのことだったとも漏らしているが、球界きっての強打者による年俸調停は大きなエポックとなったことも間違いなかった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング