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プロ野球はみだし録

広岡達朗監督は「いい加減にしてくれ!」延長サヨナラ弾を放って激怒された西武の助っ人【プロ野球はみだし録】

 

黄金時代を呼び込んだ勝負強さ


81年から83年まで西武でプレーしたテリー


 1982年のリーグ優勝、そして日本一。西武の黄金時代が始まった瞬間だった。率いていたのは就任1年目の広岡達朗監督。6月には首脳陣と選手たちとの確執が深刻化、チームが空中分解しかねない暗い雰囲気に覆われていたが、それを吹き飛ばすほどの明るさが、ある種の潜在能力としてあったのかもしれない。

 81年に入団したテリーの存在も明るい要素だった。当時は屋根がなかった西武球場は、試合の途中で雨が強くなれば中断され、場合によっては中止になってしまうのだが、そんなときにはカバーで覆われたホームベースに水しぶきを上げてヘッドスライディング。入団1年目から休日のデーゲームで、月1度、一塁側の内野スタンドに150席を抑え、交通遺児や母子家庭の子どもを招待したりもしていた。この“テリーズ・ボックス”と呼ばれた招待席が設置された試合では特に好成績を残す傾向もあり、試合が終わるとスタンドに登場。子どもたちにサインする姿も見られた。もちろん、好漢というだけでは務まらないのがプロ野球の選手だ。81年は首位打者を争い、83年には38本塁打を放って、109打点を稼いでいる。

 ただ、安定感を欠いたのが守備。すでにパ・リーグでは指名打者制が導入されていたが、その座には「走れない、守れない」(広岡監督)田淵幸一が主砲として君臨していた。82年は前後期制のラストイヤーで、3位に終わった後期の9月にテリーは右翼から悪送球、タッチアップの走者を刺せず。ただ、その裏に同点弾、延長10回裏にはサヨナラ弾を放っている。

守備に難はあったが、勝負強い打撃でチームに勝利を呼び込んだ


 エラーを挽回する値千金のホームラン、という場面は少なからず見られ、たいがいはエラーが帳消しになるものだが、広岡監督は「もう、いい加減にしてくれ!」と激怒。それでもテリーは日本ハムとのプレーオフで逆転グランドスラム、中日との日本シリーズ第6戦(ナゴヤ)では4打数4安打で日本一を呼び込み、やっと帳消しに(?)。翌83年オフにテリーはメジャーへ復帰するべく退団したが、やはり巨人との日本シリーズ第7戦(西武)で日本一を決める逆転二塁打。西武は契約の延長を求めている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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