2008年、新日本石油ENEOS(現ENEOS)の田澤純一投手はドラフトの目玉だった。ところがメジャー挑戦を表明し、NPBに指名を見送るよう求めた。最終的に田澤はNPBのドラフトで指名されず、田澤は12月にレッドソックスと3年契約を結んだ。 日本人メジャー歴代3位の登板数
レッドソックス時代の田澤
この契約を機に、有望なアマチュア選手の流出を阻止するため「ドラフト指名を拒否して海外のプロ球団と契約した選手は、海外球団の退団後、高校出は3年間、大学と社会人出身は2年間、NPB球団と契約できない」との制限が設けられた。通称「田澤ルール」と呼ばれ、一昨年になって撤廃された。
日本球界に影響を及ぼした田澤だが、当時のことを「すぐメジャーに行けるとは思っていなかった。成長して、行けたらいいなと思っていた」と、のちに振り返っていた。
しかしメジャー初登板は1年目にやって来た。マイナーで力を付け、8月7日の
ヤンキース戦だった。0対0の延長14回にヤンキー・スタジアムのマウンドに立った。最初の打者は
松井秀喜。中飛に仕留めた。連打で一、二塁となるも後続を断つ。続く15回。先頭のデレク・ジーターに右前打を許し、二死にこぎ着けてからアレックス・
ロドリゲスにサヨナラ2ランを浴びた。黒星だったが、忘れられない試合になった。
2010年4月にトミー・ジョン手術を受けるなど苦しんだが(10年は全休。11年は3試合のみの登板)、2013年にはメジャー生活のハイライトを迎える。救援投手としてレッドソックスのワールド・シリーズ制覇に大きく貢献したのだ。
レギュラーシーズンでは
上原浩治の73試合に次ぐチーム2番目の71試合に登板した。プレーオフでは終盤のピンチに起用され、締めくくりの上原につないだ。
レイズとの地区シリーズでは第3戦の7回一死一塁、3対3の場面で登場してエバン・ロンゴリアとウィル・マイヤーズを封じるなど4試合で2回1/3を投げて無失点。タイガースとのリーグ優勝決定シリーズでは、ミゲル・
カブレラと走者を置いた場面で3度対戦して打ち取るなど、4試合で2回2/3を投げて1失点だった。カージナルスとのワールド・シリーズでは、5試合で2回1/3、無失点。上原の活躍が目立ったポストシーズンだったが、田澤の奮闘もワールド・シリーズ制覇に欠かせないものだった。
結局メジャーではレッドソックスのほかマーリンズ、エンゼルスでプレーし、通算9シーズンで21勝26敗4セーブ89ホールド、防御率4.12。388試合登板は
長谷川滋利の517試合、上原の436試合に続いて日本人投手3位である。
『週刊ベースボール』2021年11月8日号(10月27日発売)より
文=樋口浩一 写真=Getty Images