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プロ野球回顧録

江夏豊、たった一人のメジャー挑戦「必要としてくれるチームがあれば、どこにでも行く」【プロ野球回顧録】

 

先発として抑えとして日本球界のトップに立った江夏豊が、1985年の年明け、海を渡り、メジャーに挑戦した。

別れの一本杉


ブリュワーズのキャンプで若手に交じって汗を流す江夏


 のっしのっし。

 江夏豊がタテジマの阪神タイガースのユニフォームを着て、マウンドに歩いていく。甲子園でも後楽園でもない。江夏が、これまでまだ一度も訪れたことがなかった東京・多摩市営一本杉球場だ。

 1月19日、信頼する仲間たちが準備してくれた晴れ舞台で、彼は日本で最後のマウンドを踏んだ。

 名球会のメンバーや、現役で広島時代のチームメート、山本浩二高橋慶彦がはなむけの対決で打席に入る。江夏と対戦する打者の一挙手一投足に1万5000人の観衆が大歓声を送る。「私の生涯でもっとも素晴らしい1日でした。本当に幸せ者だと思います」と語った江夏は、セレモニーの最後、花束を手にしたままグラウンドを1周した。

 これは引退式であって、引退式ではない。むしろ野球人・江夏の“生涯現役宣言”のようなものだ。

 前年の84年限りで西武を自由契約となった江夏は84年12月26日(現地時間)、ミルウォーキー・ブリュワーズとマイナー契約をした。64年、南海の左腕・村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツで日本人メジャー第1号となってから20年。史上2人目の挑戦だ。

 すでに往時の球威は影を潜めていたが、あの江夏の21球を例に挙げるまでもなく、対戦打者の心理の裏をかく奇跡のようなピッチングは、メジャーでも通用するのでは、と思った人は少なくない。

 ただ、36歳の年齢。しかもマイナー契約である。冷静に考えれば、開幕までのサバイバルに生き残る可能性は決して高くない。

 それでも挑む。可能性が少しでもあるなら。

 江夏はこうも言った。

「私は胸を張ってマウンドに上り、マウンドを降りてきた。これからも今までどおりやろうと思います。10月に日本に戻ってきたときは、一言、ご苦労と言ってほしい」

日を追うごとに評価上昇も……


 死に場所を探す野武士のような江夏の挑戦に、心を打たれた野球ファンは多かった。

 2月上旬にアメリカに向け出発し、ロサンゼルスでのミニキャンプのあと、25日からアリゾナ州フェニックスのブリュワーズキャンプに合流。

「ワシを必要としてくれるチームがあれば、どこにでも行く」と話していた江夏に対し、当初、米関係者は「日本から太った男が来た」と冷ややかに見ていたが、日を追うごとに評価を上げていった。

 3月24日には、パドレス戦で二死満塁から左打者のケネディを外角低めのチェンジアップで三振に仕留め、ガッツポーズ。ブリュワーズのバンバーガー監督も「窮地に立ったとき、どういうピッチングをするかでピッチャーの格は決まる。エナツは素晴らしいピッチャーだ。大リーグ入りの可能性は75パーセントだと思う」と絶賛した。

 しかし、試合相手のメンバーにバリバリのメジャーが増えるに従い、失速。4月3日、エンゼルス戦で4安打2失点の敗戦投手となった。これで3試合連続結果を出せなかったことになり、翌4日、自由契約。マイナー契約すら勝ち取れず、36歳の挑戦は終わった。

『よみがえる1990年代のプロ野球 1985年編』より

写真=BBM
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