週刊ベースボールONLINE

プロ野球回顧録

日本中の感動を呼んだヒジの手術からの完全復活!「サンデー兆治」の奇跡【プロ野球回顧録】

 

選手生命は完全に断たれたかに思えたが、不屈の男は、絶体絶命のピンチからはい上がった。ロッテのエース・村田兆治。1985年、その鮮やかな復活劇は、日本中の感動を呼んだ。

経験のない痛み


復帰後も真っ向勝負と先発完投にこだわった村田


「キャンプの紅白戦第1試合に投げるなんて初めてじゃないかな」

 ロッテのエース、35歳の村田兆治は、そう言って日に焼けた顔をほころばせた。1985年2月23日、18年目のベテランは紅白戦で予定の2回を投げ、打者7人に無安打、1四球。稲尾和久監督の「もう1回いくか」の声に即座にうなずき、3イニング目のマウンドに向かったが、2点を取られた。

「それまでなんともなかった内転筋が張ってきた。生きた打者に投げるのは、それだけ体の神経が緊張しているんです。結果だけで見ないでください。内容で見てください」

 村田の声が尖る。マッサージを受けた後、紅白戦のさなかなのに外野のフェンス際を走り始めた。

 試合後、いつもひょうひょうとしている稲尾監督は興奮気味に語る。

「オープン戦では巨人戦に投げさせたい。全国に兆治は見事によみがえりましたよ、と報告したいんだ」

 自身も西鉄での現役時代、故障に苦しんだだけに、村田がどんな思いで、ここまでたどり着いたかが分かるのだろう。

 82年5月17日の近鉄戦(川崎)、村田は、この年6試合目の先発マウンドに上がった。マサカリ投法とも言われる豪快なフォームから150キロ超の剛速球と落差の大きなフォークを投げ込み、前年の81年は19勝で最多勝。この年も、ここまで5試合で4勝1敗、うち2完封だった。当時32歳、まさに円熟期にあった。

 しかし初回の一死一塁、ハリスへの1球目を投げた瞬間、右ヒジに激痛が走る。ピキッと小さいが鳥肌が立つような音がし、右腕にまったく力が入らなくなった。なんとか投げ続け、3アウトを取ったが、この時点でスコアボードには「2」の数字が灯っている。ベンチに戻り、村田は汗を拭くためタオルを取ろうとしたが、できなかった。右腕は動かないのだ。やむなく、自ら交代を申し出た。

 翌日になっても痛みは引かない。軟骨が出る、いわゆるネズミかと思い、病院でレントゲンを撮ったが、「問題ありません。疲労がたまっただけでしょう」と言われた。そんなはずはない。これまで、こんな痛みは経験がなかった。あちこちの病院を駆け回り、西洋医学、東洋医学、民間療法なんでも試したが、原因すら分からず、患部の痛みは引かなかった。いつの間にか、1年近い月日が流れていた。いら立ちから自暴自棄になり、うつ病になりかけた。

わずかな望みをかけアメリカへ


 もう野球を続けるのは無理かもしれないと思ったこともある。ヒジのじん帯の損傷ではないかと言われ、わずかな望みをかけ、メジャー選手のヒジ痛の治療を手掛けているという米ロサンゼルス郊外のフランク・ジョーブ博士を訪ねた。そこで「右ヒジの腱が切れる寸前だ。温存しても治ることはない。左手首の腱を移植する以外方法はないだろう。トミー・ジョン(エンゼルス)の手術も成功している私に任せなさい(74年にこの手術をし、復帰した選手。46歳まで現役を続けた)」と言われた。

 ただ、アメリカならともかく、当時、ヒジにメスを入れた選手は、もう投げられないというのが日本球界の“常識”だった。だが、村田は失敗してもいい、やってみようと思った。やらずに後悔するより、よっぽどいい。もしダメでも、日本球界の後輩たちのいい例になるのではないか、とも思った。

 83年8月24日、村田は腱の移植手術を受けた。手術は3時間。成功だったとは言われたが、麻酔から目覚めたとき、右手がグラブのように膨れ上がって、あらためて先行きの難しさを感じた。手術以上に大変だったのが、リハビリだった。ヒジが真っすぐ伸びるまで1カ月、キャッチボールができるまで3カ月。「時として大声を出して叫びたくなるときがあった」という。頭には白髪が目立ち始め、円形脱毛症にもなった。

 アメリカでのリハビリの間、親身になって世話してくれたのが、トム田山氏だった。しかし、田山氏は村田が帰国後、ガンの闘病生活に。「村田が完全復活するまでにボクも治すよ」と言っていたが、84年の開幕後、死去した。村田はその知らせを聞き、全身から一気に力が抜けたという。リハビリの中で、父親も亡くなった。最後の言葉は「兆治、お前に俺の右腕をやりたい」だった──。

 進んで、戻って、それでも一歩一歩、地を這うように前に進み、ジョージ博士には「まだ早い。焦るな」と言われながら、84年5月末には二軍で実戦復帰を果たし、一軍でも8月12日の西武戦で登板した。以後、5試合に投げたが、勝ち星はなかった。「来年はまず1勝。その先に2ケタがある」と誓った。

復帰後11連勝をマーク


サンデー兆治に日本中が感動した[左は稲尾監督]


 3月16日、ヤクルトのオープン戦に登板し5回を無失点。勝利投手になった。

「予想以上によかった。大きな収穫だった。まだ7回でも8回でも投げられるが“まだ投げられる”という余韻を残してマウンドを降りるにもなんとも言えんものだ。希望の灯りが見えてきたね」

 オープン戦でも「勝ち星」は投手の何よりの薬。笑顔が弾んだ。

 いよいよ1985年開幕。4月7日の日本ハム戦が初登板だったが、降雨のため途中で中止。仕切り直しが14日の西武戦(川崎)だった。試合は5回まで0対0。球数が増えるにつれて、ヒジが擦り切れるような感覚があった。ただ、再発より怖かったのは、球が甘くなり、打たれることだった。やるなら逃げない、やるなら勝つ、どんなことがあっても絶対……と思っていた。気迫があふれ出るかのように、すべての球に言葉を発しながら投げた。「この野郎」「打ってみやがれ」「へぼバッターが」。終わってみたら155球、2失点の完投勝利。1073日ぶりの公式戦の勝利だった。

「投げていて怖かった。以前はストレートだけで自信があったのに、今はちょっと隙を見せるとやられる。だから体力的な疲労を感じる余裕はないほど精神的にぐったりしたよ」

 グラウンドでは目が少し赤いくらいだったが、ベンチ裏に戻ると、大粒の涙があふれてきたという。それでもすぐ洗面所で洗い流し、取り囲んだ記者の質問には笑顔で答えた。

「まだ、あまり実感はわいてこないね。必死で投げるんだと、そればかり考えていたよ。まず1勝と思ってきたが。こういう形(完投)で実現するとは思わなかった」

 家に戻ると、電話が夜遅くまで鳴りっぱなしだ。皆、祝福のメッセージだった。あらためて「ああ、いろいろな人に心配をかけてきたな」と思った。

 中6日が普通の今では違和感がある書き方になるが、以後、村田はヒジを休めるために中6日で投げた。それが日曜日で7試合続き、すべて勝った。誰がつけたか「サンデー兆治」の名は社会現象ともなっていく。その後、曜日は変わったが、7月7日には連勝が11になっていた。

 実は、ジョーブ博士からは「今度腱が切れたら、もう野球はできない。絶対に100球以上投げてはならない」と言われていたが、村田はそれを頭には置きながらも「球数で降板はしない」と思っていた。稲尾監督はいつも100球になると、「兆治、交代しよう」と声を掛けたが、絶対にクビを縦に振らなかった。

 11連勝のうち、完投勝利が8試合。ジョーブ博士の言葉にもかかわらず、160球投げたこともある。途中からいつもヒジにしびれを感じたが、自分からマウンドを降りることは絶対にしなかった。さらに言えば、決してかわすピッチングはしなかった。常に全身全霊を込めた、まさに魂の真っ向勝負。それが人々の心を打ち、感動を呼んだ。

 先発完投にこだわり、決して妥協はしなかった。「昭和生まれの明治男」とも言われた頑固一徹の男だった。

 同年、村田は17勝5敗。カムバック賞にも輝いている。

『よみがえる1980年代のプロ野球 1985年編』より

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング