週刊ベースボールONLINE

逆転野球人生

野口寿浩 “平成最強捕手”古田敦也の影武者から日本ハム移籍でリーグ屈指の捕手へ【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

同期入団・古田の大きな壁


ヤクルトでは古田の存在があり、出番に恵まれなかった野口


 もし「絶対に勝てないライバル」がいたら、あなたならどうするだろうか?

 その場にとどまりチャンスを待つか、それとも新天地でのリスタートに懸けるのか? 冷静に見て、戦うにはあまりに巨大すぎる相手で、自分が勝つのは不可能に近い。そういう存在が近くにいたとき、人は人生の選択を迫られる。

 ヤクルト時代の野口寿浩もそうだった。習志野高校では強肩強打の捕手として知られ、1989年(平成元年)ドラフト外でヤクルト入り。伊東勤(西武)や田村藤夫(日本ハム)のような職人肌の堅実なタイプの捕手に憧れる18歳の門出だ。当初は自分のことで精一杯で周囲を見る余裕もなかったが、このとき同期入団のドラフト2位指名選手もキャッチャーだった。ポジションも被れば、好みのタイプ小泉今日子まで同じのメガネ君。そう、のちに“平成最高の捕手”と称される古田敦也である。

 90年からヤクルトの監督に就任した野村克也は、新人の古田をレギュラーに抜擢して捕手の帝王学を叩き込んだ。背番号27は1年目からリーグトップの盗塁阻止率.527をマークしてゴールデン・グラブ賞に輝き、2年目には課題と言われていた打撃でも打率.340で首位打者を獲得。ID野球の申し子は、瞬く間に球界を代表する捕手へと駆け上がっていく。

 なお、92年秋の野村ヤクルトV1を報じる週べ増刊号において、「今に見ていろ、オレだって!」というファームの記事で「第2捕手としての期待も高い」と紹介されているのが野口だ。この年の古田は全試合でマスクを被り、打率.316、30本塁打、86打点の好成績で攻守の要として優勝の立役者に。27歳の絶頂期を迎えていた。偉大な先輩と歳が離れていたら、年功序列で椅子が空くのを待てばいい。だが、野口と古田は6歳しか違わない。衰えるのを持っていたら、自分も30歳を過ぎてしまう。

94年、“古田の代役”に抜擢も……


 ライバルの凄さは同じチームでポジションを争う野口が誰よりも分かっていた。古田の計算し尽くされたミスのないリード、天性の体の柔らかさにリストの強さを生かしたキャッチング技術は芸術的ですらあった。野村ヤクルトが初の日本一に輝く93年には、2年連続フル出場でMVPに輝いた背番号27。当時の週ベには野口のこんな小さなコメントが掲載されている。

「古田さんに対抗しようとすると課題だらけになってしまうので、僕自身をアピールしていこうと思っています」

 肩と足では決して負けていない。イースタンでは盗塁阻止率4割を超え、手応えもあった。しかし、93年の古田は1軍で盗塁阻止率.644というNPB新記録を樹立。ライバルはまさにプロ野球史上最高クラスの捕手だった。野口にとって数少ないチャンスは94年春先にやって来る。ファウルチップを指に受けた古田が骨折で戦線離脱。野村監督は、前年まで1軍で1試合だけしか出場経験がなかった22歳の野口を代役として起用する。

94年4月19日の横浜戦では4打数4安打でヒーローに


 4月15日の巨人戦でプロ初スタメンを飾ると、19日の横浜戦では4打数4安打の大暴れ。だが、大黒柱を失ったチームはリーグ最下位の防御率にあえぎ、当初は背番号27のリタイアに「野口を育てろという天の声や」なんてコメントしたノムさんも、日に日に厳しいボヤキが増えていく。それは期待の裏返しだったが、ベテラン捕手の中西親志をスタメンで使うこともあり、柴田猛バッテリーコーチは「(野口は)いいモノを持っているんです。今は一軍で最初の壁にブチ当たっているんですよ。古田と比べたら可哀想。長い目で優しく見守ってあげてくださいよ」と長年二軍の正捕手を務めた若者をかばった。

 結局、94年の野口は63試合で打率.270という合格点の数字を残し、翌年は背番号67から38へ昇格。カラオケの十八番は徳永英明の『壊れかけのRadio』……というのは置いといて、プロ5年目の飛躍。他球団ならばここから正捕手へ定着していく流れだが、なにせライバルは平成最高の捕手である。95年に古田が完全復活した野村ヤクルトは再び日本一に輝くが、週ベV記念号で野口は“影武者生活も活躍の場虎視眈々と”の見出しで「開幕から後半戦まで、古田の他に捕手としてベンチ入りしていたのは野口ただ一人」と紹介されている。

「出番があれば、必ずいい仕事ができるように準備しています」なんて口にはするものの、どんなに頑張っても“最強の控え捕手”止まりの現実。追い打ちをかけるようにヤクルトは95年ドラフト会議で明治大のキャッチャー野村克則を指名した。つまり、野口は“平成最高の捕手”に加えて、“監督の息子”とひとつしかないポジションを争うことになるわけだ。出場機会が減ることあっても増えることはないだろう。現に97年はわずか16試合の出場と古田だけでなくカツノリをも下回った。第2捕手は二軍のゲームに出て試合勘を鈍らせないことも仕事の内と頭では理解しても、感情が暴れ出す。あまりに酷な労働環境である。自分が野口の立場なら「やってられるか」と腐るかもしれない。

 皮肉なことに、チームからしたらその捕手能力は貴重だった。94年シーズンのように大黒柱の古田に何かあっても、高いレベルで代役を務められる存在。いわば“古田の保険”の第2捕手としてベンチに置いておきたい。幾度となく他球団から獲得の探りはあったが放出することはなかった。だが、野口からしたらもう若手と呼ばれる時期は終わろうとしていた。このままなら出してほしい。25歳を過ぎたあたりから球団に移籍の希望を伝えるようになる。いつの時代も組織の都合と個人の事情は、決して同じ方向を向いているわけではないのだ。

移籍志願から日本ハムへ電撃トレード


 そして、野口はプロ8年目を終え、再び球団にトレード志願をする。当然、ヤクルトも慰留に努め、一旦は98年の1月末に契約更改。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない。開幕直前に移籍話が再燃するのだ。日本ハムが野口の獲得を打診したのである。オフにFAで中嶋聡(オリックス)の獲得に名乗りをあげるも西武との争奪戦に敗れ、正捕手の田口昌徳も伸び悩んでいた。しかも交換要員には若手内野手の城石憲之を出すという。当時のヤクルトは宮本慎也が脱税事件による出場停止で遊撃手を探していたのだ。のちにYouTubeチャンネル『野球いっかん!』で野口本人が明かしていたが、日本ハムに在籍していた落合博満がオープン戦で野村監督と話した際に、「盗塁が刺せて、ワンバウンドを止められる捕手」の野口が欲しいと直談判したという(ちなみにこの時の落合はイチ現役選手である)。前年は優勝チームの西武にいいように走られまくり、バッテリー強化は急務だった。

日本ハムでは正捕手としてチームの勝利に貢献するプレーを見せた


 両球団間で開幕2日後の4月6日にトレード合意すると、野口は即入団発表。1月に移籍志願が立ち消えた際も、「それでもね、チャンスがあれば、と思ってましたよ」と他球団でのプレー願望を捨てなかった新背番号54の“出されたトレード”ではなく、“自ら出て行くトレード”だ。新天地に合流すると野口には思わぬ形でチャンスが巡ってくる。開幕からマスクを被る田口がホームクロスプレーで左ヒザの靱帯を損傷して離脱。ヤクルト時代は8年間で109試合、わずか1本塁打だった27歳が正捕手に定着するのだ。当時、打撃に定評があった内野手登録の新人キャッチャーもいたが、上田利治監督は野口をメインで使い、ルーキーを代打の切り札にしたかったという。その選手こそのちの名球会打者・小笠原道大である。

 野口は5月13日から先発起用。17日の近鉄戦では、4打数4安打の活躍で東京ドームのヒーローインタビューに呼ばれ、「お立ち台なんて何年ぶりでしょうか」と本拠地のファンに向けて挨拶してみせた。慣れない一軍レギュラーの重労働で円形脱毛症に悩まされながら、誰よりも試合に飢えていた男は躍動する。移籍1年目の98年シーズンは、チーム捕手最多の92試合にスタメン出場すると、“ビッグバン打線”の一角を担い打率.235、10本塁打、34打点の成績を残し、オールスターにも初選出。前半戦の首位を独走した日本ハムは後半に失速して2位に終わるも、野口の盗塁阻止率.421はリーグトップを記録した。日米野球のメンバーにも代役で選ばれ、12月には結婚式で新妻とキャッチャーミット型のウエディングケーキに仲良く入刀。さらばキョンキョン。電撃移籍からわずか1年足らずでバラ色のオフを実現させたのである。

4球団を渡り歩いた21年間のプロ生活


 プロ10年目の99年はキャリアハイの130試合出場で自身初の規定打席にも到達。2000年には打率.298をマーク。三塁打11はリーグトップタイという俊足捕手はチャンスにも強く、恐怖の八番打者として恐れられた。盗塁阻止率.423と強肩も健在で、二度目のオールスターにも出場。年俸も移籍時の約4倍となる8000万円を超え、20代の終わり、ついに“古田の影武者”はリーグを代表する捕手になった。

03年からは阪神、09年からは横浜でプレーして10年限りでユニフォームを脱いだ


 その後はチームの若返りと札幌移転もあり、03年には阪神へトレード移籍。ここでは再び正捕手・矢野輝弘の第2捕手を努め、リーグ優勝に貢献する。バッテリーを組んだ多くの若手投手たちの一本立ちを見届け、09年にはFAで横浜へ。39歳の10年限りで引退したが、4球団を渡り歩き21年間のプロ生活をまっとうした。なお、兼任監督まで務めた古田は42歳の07年まで生涯ヤクルトで現役を続けており、野口が古巣に残っていたら出場機会も限られ、これほど長くプロ生活は続かなかったのではないだろうか?

 オレはもっとやれる。だから早く出してくれ―――。あのトレード志願が、野口寿浩の逆転野球人生を切り開いたのである。
 
文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング