週刊ベースボールONLINE

パンチ佐藤の漢の背中!

ヤクルト時代は野村監督を分析!? アスリート系の学生就職を支援する会社経営者・城友博氏/パンチ佐藤の漢の背中!

 

野球以外の仕事で頑張っている元プロ野球選手をパンチ佐藤さんが訪ねる好評連載、今回のゲストは90年代のヤクルトで俊足巧打の外野手として活躍した城友博さん[ジェイシップ株式会社代表取締役社長]。城さんは現在、野球部などアスリート系の学生の就職を支援する会社を立ち上げてご活躍中。城さんの現役時代に取材したパンチさんは、当時の印象と違う城さんに驚いていました。
※『ベースボールマガジン』2021年12月号より転載

相手ピッチャーのクセを徹底的に研究


ヤクルト時代の城氏


 30年近く前のことだった。スポーツ番組の取材で、パンチさんは当時ヤクルトスワローズに在籍していた城さんを訪ねた。すると2人を見るや、駆け寄ってきたのが長嶋一茂選手。

「パンチさん、聞いてくださいよ! 城ね、『元住吉(もとすみよし)』のこと、『げんじゅうきち』って言うんですよ!!」

 これに加え、「(打撃指導中の)コーチが『もっと腰を回せ』と言ったら、フラフープを回すように腰をグルグル回した」というエピソードを入手したパンチさん。ずっと城さんのことをそんなおとぼけキャラ、ずっこけキャラだとばかり思い込んでいた。

 だが今回の取材で、意外な(!?)真実が判明したのである。
       
パンチ (習志野)高校何年生のときにプロのスカウトが来てるぞって話があったの?

城 2年生のときです。

パンチ 何がプロに認められたと思う?

城 高校時代の自分のセールスポイントは、200盗塁して失敗が1回だけ、というところでした。小学生のころから足も速かったですし、盗塁だけはちょっと自信がありました。

パンチ そして18歳でヤクルトに入ったわけだ。実際プロになって、驚いたとか壁を感じたことはあった?

城 もう壁だらけです。まず広沢(克己)さんの体の大きさとバッティングを見たとき、衝撃を受けました。

パンチ やっぱりそうだよね。ロサンゼルス五輪の四番バッターだからね。

城 ピッチャーの球にしても、例えば巨人の松谷(竜二郎)さんのスライダーとか。もう、見たこともないようなキレがありましたね。1年目で、すでに挫折しました。

パンチ氏[左]、城氏


パンチ エライところに来ちゃったな、と。そこから何に気付き、どうクリアして、一軍入りをつかんだの?

城 環境がよかったと思います。当時二軍監督をしていらした福富(邦夫)さんがメチャクチャ厳しい方で、毎日のように練習が終わったあと、「今日は何を学んだか言ってみろ」と聞かれました。そういう教育をしてくださったんです。だから、自分で何かに気付いて変えたというより、監督が変えてくださったという感じですね。

パンチ 「今日はどんなことを学んだんだ?」「昨日より今日、何が成長したんだ?」「明日はどんなことをやるんだ?」と一つずつ、考え方を教えてくれたんだね。それは大きいね。

城 2年目にはプロの球にも慣れてきて、3年目から2年連続、イースタン・リーグで盗塁王を獲らせていただきました。自分でもびっくりするぐらいの進歩でした。

パンチ かなりセンスもよかったんだろうけど、そのセンスだけで突き進むんじゃなく、二軍監督がきちっと階段を上らせてくれたんだね。ところで盗塁って、どこを見るの?

城 高校時代は右ピッチャーだったら左足が上がったら、もしくは全体的に見て走っていました。二軍でも同じような感じでしたが、一軍のピッチャーはクイックも速いし、普通に走ったらアウトなので、そこからクセを研究するようになりました。

パンチ 自分で研究したのか。例えば、セ・リーグの代表的なピッチャーで言うと、誰にどんなクセがあった?

城 巨人なら槙原(寛己)さんは足幅。桑田(真澄)さんは肩の開き具合。宮本(和知)さんは左足の軸が入ったらホーム、平行だったらけん制でした。中日山本昌さんも足幅に出ていましたが、たぶん一般の方が見ても分からない程度の違いだったと思います。

パンチ すごいな。あの現役時代のずっこけキャラは一体なんだったの?

城 正直、敢えてそんなふうに演じていた部分がありましたね。僕は、プレーヤーとしては全然大したことがなかった。ただ監督が何を求めているのか、自分が今どんなキャラを演じればそこにいられるのか、常に考えていました。プロはどうすればこのチームで残れるか、そこを考えられない人はどんどん戦力外になっていく世界。だから僕は野村(克也)監督にどういう姿を見せれば使ってもらえるか、考えました。それで周りを見渡すと、当時ヤクルトの選手でバットを短く持っている選手があまりいなかったんです。飯田(哲也)選手も笘篠(賢治)選手も、皆バットを長く持っていた。だから自分はバットを短く持って、とにかくガッツのあるプレーを見せようと思いました。

パンチ プロに入ってそこまで考えられたのは、大したもんだよ。俺なんか、別に自分のプライドが高いとは思っていなかったよ。だけど一応高校、大学、社会人、オールジャパンときて、「佐藤というのはこういう選手です」というところがあったがゆえに、監督に求められるものとか、考えたことがなかった。たまたま(オリックス入団時の)上田利治監督が俺みたいなタイプが好きだったから、ブーマーのケガもあって1年目から試合に出してもらって、3割打っちゃった。2年目、土井(正三)監督に代わったとき、まだその気持ちでいたからうまくいかなかったんだね。城君みたいな考え方ができていれば、そのへん柔軟に自分を変えて、野球人生もまた違っていたのかなと思うよ。

生き残り戦略をかけて……


野村監督[左]が何を考えているのかを分析していたという


城 今の会社の経営もそうなんですよ。僕は経営者としては未熟なんですけど、今世の中でどういうことをすればお金が儲かるのか、とか何をすればどうなるといった感覚だけは自信があるんです。

パンチ そういうニオイが分かるようになったのはいつごろから?

城 僕、勉強のアタマはよくないんです。ただ常に逆算というか、何か結果を想定したら、そこから逆算して今何をすべきかということを子どものころから考えていましたね。プロに入ってからは、まず野村監督が何を考えているかをメチャクチャ分析しました。

パンチ 俺、土井監督が何を考えているかなんて、想像したこともなかったわ(苦笑)。

城 若手って、ベンチで監督の前に座らなきゃいけないじゃないですか。だいたい元気に声を出している人が多いけど、僕はそこでずーっと監督とコーチの会話を聞いていて、時々ベンチ裏に行ってはそれをメモし、「監督はこういうタイプなんだな」と分析していました。

パンチ いやあ、野村監督が選手をいろんな視点から観察し、分析しているとは聞いていたけど、その野村監督を分析してやろうと思っている人なんて初めて聞いたよ。それで、どんな分析結果に行きついたの?

城 例えば野村さん、母子家庭で育って、中卒で働いてお母さんを助けようとしたこともある苦労人じゃないですか。だから大卒は、なんとなく嫌い。だけど僕らのようなペーペーには、野村さんのほうから「お前、どこの学校出てるんだ」とは聞いてくれないので、自分から敢えてそういう話をするんです。ウチもそんな裕福な家庭ではなかったから、そこを盛って、「小さいころからおいしいものも食べられなかったし、高卒だし……」とか苦労したところを強調して、野村さんに目を留めてもらうようにしました。

パンチ 城君、いい話を聞いたよ。俺、自分でもいろいろ考えて行動するタイプだと思っていたけど、そこまでは考えていなかったよ。

城 ありがとうございます。

城氏はヤクルト時代の92年に52試合、93年は69試合にスタメン出場した[写真は95年日本シリーズより]


パンチ ヤクルトでの一番の思い出は何?

城 そうやって頭を使っていろいろ考えていた記憶しかないですね。自分の力の限界は分かっていましたし、プロはどうやってもかなわない人がたくさんいました。とにかくどうすれば一軍にいられるのか、試合に出られるのか、野村監督が何を求めているのか。そればかり考えていました。一方で野村監督が率いるヤクルトの選手たちは皆明るく、楽しくやっていた、そういう環境や仲間たちに恵まれたのもいい思い出です。

パンチ 阪神にはどういうきっかけで行ったの?

城 僕、98年にヤクルトで戦力外通告を受けて、もう野球を辞めようと思っていたんです。そのとき近鉄のコーチだった伊勢(孝夫)さんに「ウチは足の速い選手がいないから、テストを受けてみろ」と言われて断れず、受けることになった。ところが、当日熱を出してテストを受けることができなくなって……。それが、ちょうど野村さんが阪神に移る年で、ヘッドコーチの松井(優典)さんに誘われました。

パンチ 近鉄のときに発熱したから阪神でまた野村さんと……って、運命だね。

城 そうですね。ただ僕、阪神に行ったとき、椎間板ヘルニアの状態がかなり悪化していて、野村さんにもそういう話はしていたんですよ。でも、ヤクルト時代からやんちゃ系というか面白系として野村さんにかわいがっていただいていたこともあって、阪神に行ってから「おい、城」と呼ばれる回数がますます増えまして。監督室に呼ばれて「お前、タイガースどう思う? 今岡(誠)とか、ランナー一塁なのに(球を)引っ張るだろう」とか、だいたい野村さんの愚痴を聞いていた形ですね。友達のようにと言ったら失礼ですが、仲良くさせていただきました。

パンチ 野村さん、よく「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上」って言っていたけど、城君は野村さんが遺した貴重な人材の一人なんだね。

 99年限りで阪神を退団したとき、台湾、韓国球界から好条件のオファーが届いた。しかし、「僕は自分の限界が分かっていたので、きっぱりビジネスマンになりたかったんですよ」と城さん。

 実は現役時代から、『日本経済新聞』や『プレジデント』などのビジネス紙誌を愛読していた。特に、各界で成功した人物の記事やインタビューは、いつも真っ先にチェックしていたという。

「人脈は宝」と信じ人材紹介会社設立へ


パンチ ごめん、俺、今日会わなかったら一生誤解してたわ(笑)。

城 (笑)。それも野球選手としての限界値を知っていたからですよ。本当はいけないと思うんです。現役時代から引退後の仕事をどうしようかなんて考えていたら。だけど球界を引退した選手で、ビジネスマンとして成功している人はあまりいないじゃないですか。そこを目指そうと思って、今だから言えるんですけど、引退前からいろいろ考えていました。

パンチ そのころから、こんなビジネス、会社をやろうというアイデアはあったの?

城 基本的に人脈は宝だと思っていたので、人材紹介事業にしようとは決めていました。そのために、まず自分がプロ野球時代に貯めたお金を飲食店業に投資して、麻布と渋谷でイタリアンレストランを始めました。

パンチ 人材紹介の仕事を始める前のホップステップ……として飲食業というのは、どういう戦略?

城 人材紹介事業は学生と企業をつなぐもの。僕が今持っているクライアントは500社ほどあるんですが、まずその人脈づくりをしようと思いました。飲食店で儲かるとは決して考えておらず、「200人の社長と知り合うこと」に目標をおいて始めたんです。それを達成したところで、すっぱり辞めました。

パンチ それが何年前?

城 16年前ですね。それから5年間、人材紹介会社で修業しました。スポーツの世界もそうですけど、何事も土台が大事だと思うんです。パンチさんは社会人経験という土台があるから、話に奥行きがあって面白いじゃないですか。でも高卒でプロに入った選手が、そうした社会経験がないまま投資したり商売したりすると、割と失敗するケースが多い。だから自分は5年で人材の土台を作り、満を持して勝負しようと思いました。

パンチ そこで、この会社を立ち上げたわけ?

城 7年ほど個人事業主として、自分の知り合いの社長、クライアント10社程度を相手に学生を紹介していました。この会社を立ち上げたのは4年前になります。

パンチ 一人でやっていても、そこそこお金を稼げたということでしょう? なぜ会社組織にしたの?

城 僕、究極の不労所得を目指しているんです。自分がプレーヤーをしていると、やはり限界があるんですよ。社員教育を含め僕がいなくても回る仕組みを作って、あと3年ぐらいしたら緩やかに、ハワイあたりでゆっくり暮らしたいんです。野球をしていた時代からずっと走っていたので、もうそろそろ緩やかな生活に移りたくて。

いくら儲かるか、より「誰と組むか」を重視


パンチ 俺もそうだよ。前もこのコーナーで話したんだけど、俺はプロ野球、芸能界とある程度山を登ってきて、ちょっといい景色も見てきたから、今ゆっくりゆっくり下山中なの。

城 そうなんですか? パンチさん、ぜひ弊社のイベントで学生相手に講演してくださいよ。平時なら年間40、50回開催していますから。

パンチ 城君! LINE交換しよう。で、改めてこの会社がやっていることを説明して。

城 大学硬式野球部を中心とした学生アスリートの就職をサポートしています。野球部の子はまずあいさつからしっかりしているし、会社に入ってからも活躍している卒業生が多いという評判を前々から聞いていて、そこがビジネスにならないかと思ったんです。実際そうした理由から、「野球部の学生が欲しい」という企業が世の中にはたくさんありまして。「野球部の子が欲しい」「野球部出身の子を育てたい」という会社、社長が野球好きだとか昔野球をやっていた会社を僕が500社ほど厳選して、クライアントとしてお付き合いいただいています。学生は全国の大学から登録者を集め、クライアント企業とマッチングさせていきます。野球部だけでも毎年、200登録ほどいただけるんですよ。

パンチ 俺たちの時代は、指導者とか学校とかが就職先を決めてくれたんだけど、時代は変わったね。

城 亜細亜は今もしっかり就職が決まりますから、僕らの出番はないですよ。ただ登録大学には入っているので、毎年、他大学の学生から噂を聞いたとかで、話を聞きに来る学生はいます。全体でいうと亜細亜のように全員がうまく収まる大学ばかりではないので、そこは弊社の出番になります。先ほどパンチさんをお誘いしたイベント1回で最高で7人、企業とマッチングさせたこともあるんですよ。

パンチ いやあ、城君、いい風に乗っているね。もちろんきっちり分析や準備を怠りなくして今の成功があると思うけど、こう人生トントンと上ってくると、「ガクンと反動が来たら」とか心配に思うことはないの?

城 僕は絶対に大丈夫だと思っています。なぜなら企業は必ず人を採用します。そのビジネスモデルがあって、僕はプロ意識もある。万が一会社が倒産しても、いろんな企業とコンサルタント契約を結んでいるので、社員と僕の給料を出せるくらいはできます。

パンチ 今日の対談は素晴らしいね。いろんな人が座頭市に斬られているみたいな内容だね。斬られているんだけど、それに気付いてないみたいな、ものすごい斬れ味だよね。

城 (笑)。今、弊社の社員は20人。今のビジネスモデルで、社員を200人、300人に増やして会社を上場させるとか、市場としては可能だし、おそらく成功すると思うんです。でもいくら儲かるかじゃなく誰と組むか、という部分に僕は信念があるので、ただ会社を大きくすることには葛藤があるんですよ。それに、出る杭は打たれます。出過ぎず、自分の理想の年収をいかに長く稼ぐかというところが大切だと思っています。

パンチの取材後記


 まずは改めて、「本当に失礼しました」と言いたいですね。ずっと城君のことを、天然おとぼけキャラだと誤解していました。ところが今回の取材でパッと見たときの顔つきがね、目に力があって、ハツラツとしていた。話をしてみて、ますますすごい人だなと思いましたね。特に「野村監督を研究していた」という話。突き刺さりました。今となっては遅いかもしれないけれども、いい勉強をさせてもらいました。

 今、世界中がコロナ禍で大変な中、絶好調。「不労所得」云々口にしながらも、天狗になったり勘違いしたりといったふうは一切ありませんでした。

 さらに素晴らしいと思ったのは、若い人たちを幸せにしたいという気持ちが全面にあること。自社の若手社員にも「相手が何を求めているのか常に考えなさい」と、教育している。城君自身が、「野村監督は何を求めているのか」分析し、「本来は4、5年目でクビになるような選手だったのに、プロで12年やれた(本人談)」わけですからね。説得力がありますよ。自分さえよければいい、ではなく「みんなを幸せにしたい」と思っているから、自分のところにも幸せが返ってくる。「情けは人のためならず」という言葉の意味を城君に見せてもらいました。

 僕はゆっくりクールダウンしていくつもりだったけれども、なんかもうひと踏ん張りしようかなと思わせてくれた対談でした。城君、ありがとう。

城氏


●城友博(じょう・ともひろ)
1969年4月30日生まれ、千葉県出身。習志野高では3年夏に甲子園ベスト8。ドラフト6位で88年にヤクルトに入団。俊足巧打の外野手として92年は83試合、翌93年には96試合に出場するなど連覇に貢献した。99年に阪神へ移籍し、同年限りで現役引退。通算成績は実働9年で362試合出場、打率.243(170安打)、2本塁打、41打点、38盗塁。その後は飲食店経営、会社員を経て独立。現在は起業し、アスリート系学生の就職支援企業「J-SHIP」の代表取締役。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング