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逆転野球人生

巨人6年間でわずか6勝の“ドラ1”吉田修司。ダイエーで屈指のリリーバーへ大変身した理由【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

豪華投手陣の巨人へ入団


ドラフト1位で巨人に入団した吉田だったが、登板に恵まれず


 なかなかチャンスが来なかったドラフト1位投手。

 かつて、プロ野球にはそういう選手もいた。何か問題を起こしたわけじゃなければ、誰が悪いわけでもない。ただ、運が悪かった。入団したタイミングやチーム事情に恵まれなかったのだ。今回の主役、吉田修司もそうだった。

 かつて80年代後半から90年代前半にかけての巨人は、プロ野球史上屈指の投手王国を形成していた。この時代の巨人ドラフト1位リストを見ると興味深い。80年の原辰徳(東海大)以降、翌年からドラ1で立て続けに高卒投手を指名。81年槙原寛己(大府高)、82年斎藤雅樹(市立川口高)、83年水野雄仁(池田高)、85年桑田真澄(PL学園高)、86年木田優夫(日大明誠高)、87年橋本清(PL学園高)とのちに投手王国を築く面々が続々と集結する。ただ、欲を言えば左投手が不足していた。角盈男はすでに全盛期を過ぎ、若手左腕の宮本和知は当初伸び悩み、87年ドラフトではアマ屈指のサウスポー阿波野秀幸(亜細亜大)に1位入札するも抽選で外した。そこで、1988(昭和63)年ドラフト会議で1位指名したのが、即戦力の呼び声高い吉田修司(北海道拓殖銀行)である。

 ソウル五輪の野球銀メダルに貢献した22歳左腕は、川崎憲次郎(津久見高)の外れ1位だったが、背番号19を貰い、1年目のグアムキャンプメンバーにチーム史上初めて新人投手として抜擢される。直球は140キロそこそこもカーブ、シュート、スライダー、フォーク、スクリューと球種が多く、「変化球があって、同じフォームで投げられるから、左バッターにはまず打たれないんだ。ノンプロでの記録もそういうことらしいし、ワンポイントでというのが一番の近道じゃないかな」と当時の週べで起用プランを語る藤田元司監督。あくまで新入社員に過剰な期待はしないよと。ドラ1投手に対して先発ローテやクローザーではなく、ワンポイントでよしとする余裕が当時の巨人投手陣にはあったわけだ。

 吉田はキャンプ後半に左ヒジを痛め出遅れるが、89年7月9日に初の一軍昇格。8月2日のヤクルト戦では本拠地でプロ初勝利。23日のヤクルト戦では寝違えの斎藤に代わり初の先発マウンドにも上がった。主に敗戦処理的な役割で経験を積んだルーキーイヤーは10試合に投げて、1勝0敗、防御率1.13。チームは8年ぶりの日本一に輝き、自身は近鉄との日本シリーズでもリリーフ登板。上々のプロ生活のスタートとなった。

94年途中にトレードでダイエーに


 飛躍が期待された2年目は序盤から中継ぎで起用され、チーム24試合消化時で9試合、2勝1敗1セーブ。週べ90年5月21日号のモノクロ・グラビア「旬の香り」コーナーにも取り上げられ、「(新人の)去年は点差の開いた場面でばかり投げさせられてきましたからね。しかし、今年はいい場面でも投げさせてもらえるので、やりがいがありますよ。まあ、ボクもワンランク進歩したということでしょうね」と手応えを口にする吉田だったが、ペナントが進むにつれて徐々に出番が減っていく。

 自チームの先発陣が凄まじい勢いで、完投・完封を積み重ねていったのである。90年シーズン、巨人のチーム完投数は130試合制でなんと「70」に達した。2年連続20勝の“平成の大エース”斎藤雅樹を筆頭に2ケタ勝利投手5名を輩出し、左腕の宮本も桑田と並ぶ14勝とブレイク。12球団トップのチーム防御率は2.83を記録し、一軍で投げた投手は年間でわずか10人と藤田監督はとことん先発完投にこだわった。最終的に88勝42敗で2位広島に22ゲーム差をつけての大独走Vである(しかし、史上最速でリーグVを決めてしまったため期間の空いた日本シリーズでは西武にあっさり4連敗を喫した)。

 数少ないチャンスでも、吉田は6月3日の広島戦に先発起用されると7回まで1安打無失点の快投。8回途中、木田にマウンドを譲り初完封こそ逃したが、首脳陣には「谷間の吉田」と評価される。しかし、だ。これだけの投球をしても先発ローテ定着とはならず。皮肉なことに、その使い勝手の良さを買われる一方で、便利屋的な困ったときの保険扱いをされてしまう。2年目は21試合で3勝3敗1セーブ、防御率3.69。3年目の91年は11登板中6試合で先発起用されたが、2勝に終わる。もともと母親が「男ひとりで姉がいて、気性のやさしい子」とプロ入り時に心配するほどで、キャンプでも飛ばしてアピールするライバルたちを尻目に「最後に勝てばいいんですから」と淡々とスロー調整を続けるマイペース左腕。

 93年から復帰した長嶋茂雄監督は元気のいい選手を好むとよく言われたが、もはや吉田のチャンスはゼロに近かった。FA制度や逆指名ドラフトで巨人の大型補強路線が始まるのもこの頃だ。背番号54に変更した93年はイースタン・リーグの最多勝獲得も一軍登板なし。94年5月13日の横浜戦では4番手としてハマスタのマウンドに上がると、8回に10失点の大炎上。他の投手を起用したくなかったチーム事情はあれど、ひとりで9連続被安打は史上2人目の屈辱だった。元ドラ1左腕はいわばミスターから見切られた形となり、この約1カ月後にダイエーの岸川勝也との交換トレードで巨人を去る。

ワンポイントに活路を見出す


94年シーズン途中にダイエーに移籍。リリーフとして欠かせない存在になっていった


 27歳での移籍通告。6年間でわずか6勝。それでも、3年連続20本塁打を記録したこともある岸川との1対1のトレードからも分かるように、吉田の潜在能力は新天地でも高く評価されていた。ダイエーの指揮を執る根本陸夫は西武管理部長時代に、高校生の吉田をマークしていたという。翌95年には巨人ではすれ違いの形になった王貞治新監督がやってくる。しかし、吉田は持病の股関節痛に悩まされ、96年はわずか1試合の登板……。気が付けば、すでに30歳だ。年老いたわけではないが、若さをウリにできる年齢ではないのも確かだ。人は若さを失ったとき初めて、その先の己の人生と向き合うハメになる。もう吉田は終わった。多くの野球ファンはそう思ったのではないだろうか。

 だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない。元ドラ1左腕はプライドをかなぐり捨て、俺は何も終わっちゃいないと97年に左打者用のワンポイントに活路を見出す。49試合、4勝3敗3セーブ、防御率3.40。オリックスイチローに対しても8打数1安打と抑え込んだ。そして、迎えたプロ10年目。98年シーズンは63試合に投げ、防御率2.10と安定した投球で、最多ホールドのタイトルを獲得。夏場には代役守護神も務め5試合連続セーブも挙げた。王監督が「修司は単なる中継ぎというより、岡本(克道)、ウィリアムズらの抑えにつなげる大事なセットアッパーだよ」と絶大な信頼を寄せ、当時の週べでも「王ダイエーの21年ぶりのAクラス入りを縁の下から支えた吉田こそチームのMVPと言っても、チームメイトもファンも納得するだろう」と絶賛している。

時代が諦めなかった男に味方


00年には捕手の城島[前列左]と最優秀バッテリー賞に輝いた[前列右は古田敦也、後列右は五十嵐亮太]


 ダイエーは99年に悲願の初優勝。00年にもリーグV2を達成するが、キャリアハイの69試合登板を果たした吉田はオールスターに監督推薦で選ばれ、城島健司との最優秀バッテリーも受賞した。01年には二度目の最多ホールドに輝き、リーグを代表するセットアッパーの地位を確立するが、吉田がプロ入りした頃とは球界の環境も激変していた。先発完投が当たり前の平成初期から10年近く経ち、各球団ブルペンの“勝利の方程式”継投が常識となる。経験と度胸のある左のリリーバーの価値も上がった。いわば時代の流れが決して諦めなかった男に味方したのだ。00年のダイエーは優勝チームに2ケタ勝利投手が一人もいないという2リーグ分立後初の珍記録が話題になったが、工藤公康がFA移籍してエース不在の中、ダイエーのブルペンをど真ん中で支えた背番号49の仕事人はこんな言葉を残している。

「先発投手は、オレらにつなげば何とかなると思っているし、オレらは(抑えの)ペドラザにつなげば、と思っている。いい意味での信頼関係だよね」

 心身ともにタフな仕事で、ホークスのリリーフ陣の顔ぶれは毎年のように変わったが、03年まで6年連続の50試合以上登板と吉田だけは常に不動の存在だった。20代はほとんどチャンスをもらえず、移籍先でも30歳までくすぶった。それでも、30代にワンポイント稼業から成り上がり、移籍時は1200万円だった年俸も1億円の大台を突破したプロ野球選手がいる。

 吉田修司、通算533試合に投げた鉄腕である。

文=中溝康隆 写真=BBM
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