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日本人メジャーの軌跡

苦労の連続で厚かったメジャーの壁。2年間で日本に復帰した田中賢介/日本人メジャーの軌跡

 

日本ハムの二塁手としてゴールデン・グラブ賞を5度受賞した田中賢介が、海外FA権を行使したのは2012年のシーズン終了後だった。このとき31歳。決して若くなかったため、ジャイアンツとマイナー契約を交わす。移籍に際し「メジャーでレギュラーとして試合に出る」と、田中は思いを語っていた。しかし、現実は甘くなかった。招待参加したスプリングトレーニングでは19試合に出場して打率.229と苦しみ、3Aフレズノで開幕を迎えることになった。

メジャーでのポジションは左翼のみ


ジャイアンツ時代の田中


 フレズノでは打力をアピール。だが二塁手では15失策を犯し、左翼への転向を命じられた。天然芝に適応するのが難しかった。ネガティブに考えれば二塁手失格であるが、ポジティブに考えれば打力を生かしてもらえるチャンスであった。この年のジャイアンツの二塁は37歳のベテラン、マルコ・スクタロ。2013年はオールスターに選出されるほどの活躍で、盤石の存在だった。

 メジャー・デビューしたのは7月9日、地元でのメッツ戦だった。二番・左翼で先発。メッツの先発は18年に中日でプレーするディロン・ジーだった。2打席凡退したあと5回の第3打席でジーから中前打。初安打も記録した。

 その後も左翼、代打、代走で出場。7月28日のカブス戦を最後にフレズノへ降格された。この年、ジャイアンツでは15試合に出場して打率.267、2打点。長打はなかった。結局これがメジャーでの全成績となる。シーズン終了後にDFA(戦力外)となり、レンジャーズとマイナー契約を結んだ。

 14年、招待参加したスプリングトレーニングでは18試合で打率.185と低迷。3Aラウンドロックで開幕を迎え、そのまま昇格することなく7月には自身の希望で契約解除。自由契約となった翌年、古巣の日本ハムへ戻ることになった。

 日本人内野手はメジャーで苦戦してきた。松井稼頭央は7年間プレーしたが、遊撃から二塁への転向を余儀なくされた。井口資仁岩村明憲は正二塁手でワールド・シリーズに出たが、メジャー生活は4年だけと定着できなかった。投手や外野手に比べて内野手は日本選手にとって厳しいポジションになっている。田中のメジャーでのポジションは左翼のみ。やはり壁は厚かったと言えよう。

 それでも田中にとって2年間のアメリカ球界での生活は貴重な体験になった。復帰した15年には二塁手で自身6度目のベストナインに輝いた。19年まで5年間、日本ハムに在籍してから現役引退。その後は日本ハムのスペシャルアドバイザーや解説者としてプロ野球に携わるとともに、私立小学校の理事長として日本の未来に貢献しようとしている。

『週刊ベースボール』2022年4月18日号(4月6日発売)より

文=樋口浩一 写真=Getty Images
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