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伊原春樹コラム

古葉竹識さんの弟さんは私にとって最初の「恩人」だった/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2022年2月号では昨年11月に逝去された古葉竹識さんに関してつづってもらった。

大学進学を勧めてくれた高校時代の監督


広島で黄金時代を築いた古葉監督


 現在の広島県府中市に私は女4人、男2人の4番目、次男として生まれたが、裕福な家庭ではなかった。高校は自宅から1時間ほどの北川工高(現・府中東高)へ。学校近くに下宿することになったが、野球部の練習が厳しくホームシックにかかってしまった。1年の夏の大会が始まる前、背番号をもらったが、広島県大会前にある“事件”が起きて、北川工高は出場停止に。夏休みを利用して私は実家に帰ったが、母親に「学校をやめる」と訴えた。

 当然、母親から「これからどうするの?」と聞かれたが、中学時代に三次高も熱心に誘ってくれた経緯があり、そこに転校すると決めていた。一人で三次高の関係者のところへ行き、「僕を入学させてくれませんか」と訴えたが、工業高校から普通高校への転入は昼間のコースでは難しい。定時制なら可能ということだったが、残りの夏休みでいろいろと考えながら結局、北川工高に戻ることにした。

 夏休み終わりごろ野球部の練習に参加すると、知らないうちに監督が交代していた。「いろいろと事情はきいているから。頑張れよ」。そう声を掛けて、私に真新しいグラブをくれた。それが、古葉竹識さんの弟・古葉福生新監督だった。

 古葉福生監督は古葉竹識さんと同じく熊本・濟々黌高出身。卒業後、東都大学リーグの芝浦工大でプレー。大学進学などの費用はすべて古葉竹識さんが面倒を見ていたという。そのために古葉竹識さんは専大を中退し、社会人・日鉄二瀬へ行き、その後、広島に入団していた。

 古葉福生監督は私にとって最初の恩人だ。私はプロ野球選手を目指して練習していた。高3になると阪神、広島、近鉄のスカウトが視察に訪れていたが、どうやら阪神がドラフトで指名してくれることになりそうだった。当時はテレビやラジオでドラフトも大々的に報道されていない。我が家は新聞も購読していなかったので、翌朝、隣家で新聞を見せてもらったが、阪神の指名選手の欄に私の名前がない。広島も、近鉄も名前なし。ショックを受けたが、何としてもプロ野球選手になりたかった私は古葉福生監督に「広島のテストを受けます」と相談した。すると、「まだ技術的に足りないものがあったからドラフトに掛からなかったんだ。人間を磨くためにも大学へ行きなさい」と提案してくれた。

大学受験で東京へ付き添ってくれて


 しかし、我が家には大学進学できるような経済力はない。私は「無理です」と即座に返答したが、「推薦制度や特待生もあるから。それを使って進学すればいい」と薦めてくれた。結局、古葉福生監督の母校でもある芝浦工大のセレクションを受けることに。初めて東京へ上京することになったが、心許ない私に古葉福生監督が付き添ってくれた。宿泊先は当時、新橋駅前で料理屋を開いていた古葉福生監督のお姉さんが暮らすマンション。その一室で古葉福生監督と枕を並べて寝たのを覚えている。

 翌日、車で埼玉県大宮市(現さいたま市)にある芝浦工大の野球部グラウンドへ。監督は西鉄でプレーしていた田部輝男さんだったが、私は無事に合格した。本当に古葉福生監督がいなければ、今の私はなかっただろう。

写真=BBM
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