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逆転野球人生

野村再生工場から放出され、移籍先の仰木マジックで開花した“サイド右腕”鈴木平【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

伸び悩んだヤクルト時代


オリックスでリリーバーとして活躍した鈴木


「サッカーも多少やりましたけど、野球のほうが断然、面白かった。野球に夢中でした」

 サッカーで有名な静岡県磐田市に生まれた男は、1996年の週べインタビューにそう答えている。この年、リリーバーとしてオリックスの日本一に貢献した鈴木平である。長嶋巨人と相見えた日本シリーズではブルペンの柱として胴上げ投手に。そんなサイド右腕も若手時代はくすぶり、ラストチャンスのトレードにより劇的に野球人生が変わった選手のひとりである。

 87年のドラフト会議で東海大一高からヤクルト3位指名でプロ入り。ヤクルトに加え阪急と広島の3球団が競合するが、このとき抽選で外した阪急の三輪田勝利スカウトから母親宛に電話が入り、「ヤクルトでダメだったら、ウチが取りますから」と言われたという。この縁がのちに鈴木の野球人生を救うことになる。185cmの長身から大小2つのカーブにシンカーを操る右腕の出番は早かった。本格的にサイドスローに転向したプロ2年目の夏、阪神戦で先発すると5回を投げ切り初勝利。さらに自チームの怪我人続出で、初勝利から中2日でマウンドへ上がった8月20日広島戦では、なんと本拠地・神宮球場で5安打完封勝利を飾る。イースタンでも7イニングが最長だった19歳の大仕事だ。小食でなかなか太れず、長い首と大きな耳に、同僚選手たちからは「E.T.」のニックネームで呼ばれた。

 将来のローテ候補生。しかし、鈴木は伸び悩む。制球力に課題を残し、好不調の波も大きい。チェンジアップを覚えようとして肩を痛めるアクシデントもあった。90年には野村克也が監督に就任。その年のドラフト3位でヤクルトが指名したのが、亜細亜大学の高津臣吾だった。同じサイド右腕で年齢も近い。鈴木にとっては分かりやすいライバルだ。93年の高津はチャンスをモノにして抑え投手に抜擢されると日本一に貢献したが、同年の鈴木の一軍登板はゼロである。

ヤクルトではその能力が開花しなかった


 ちなみに週べ選手名鑑で鈴木があげた歴代好みのタイプは「中森明菜のような清楚な感じの女の子→渡辺満里奈のような愛くるしいチャーミングな女の子→中山美穂」、趣味は「レコード鑑賞→ファミコンは何でも来い→パチンコ→プラモデル製作」と落ち着きなく毎年目まぐるしく変わり、実はめちゃくちゃ飽きっぽい性格なんじゃ……というのは置いといて、プロ7年目の94年はわずか2試合の登板に終わり、防御率20.25。ふと周りを見渡すと二軍では年下の選手ばかりだ。気が付けば、いつクビを切られてもおかしくない立場だった。

“超二流”と称えた仰木監督


 だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない。鈴木は、野村ID野球から見切られるような形で、95年に山内嘉弘との交換トレードでオリックスへ移籍する。結果的にドラフト時の阪急スカウトの「ヤクルトでダメだったら、ウチが取ります」という言葉通りの展開になったわけだ。するとユニフォームが変わった途端、鈴木は別人のように投げまくる。移籍1年目の95年は50試合で防御率1.83。そのオフに結婚して臨んだ96年はセットアッパーだけでなく、平井正史の代役クローザーを務めるなど、自己最多の55試合に投げ、7勝2敗19セーブ、防御率2.43。ヤクルト時代は7年間で29登板だった右腕が神戸で一気に覚醒した。

96年、巨人との日本シリーズでは胴上げ投手に


 96年の巨人との日本シリーズは1勝3セーブ、チームのすべての勝ち試合でセーブポイントを挙げ、オリックス初の日本一の胴上げ投手に。勝負どころで落合博満を3打数無安打と完全に抑え、優秀選手賞にも輝いた。「投手では球団一の評価」と年俸も一気に4500万円増の8000万円へ。11月には子宝にも恵まれた。まさに26歳のバラ色のオフ。ヤクルト時代は年俸600万円のクビ寸前だった男が、新天地で逆転野球人生を実現させた。仰木彬監督は、鈴木を初めて見たときの印象を『週刊ポスト』96年11月15日号インタビューでこう語っている。

「コントロールの悪いピッチャーだと聞いていたんです。実際見てみると球威はある。腕の振りも独特でバッターから見ると、ボールの出どころが分からないフォーム。さらに落ちるボールを持っている。これは通用すると直感的に思いました」

 制球力に自信のないピッチャーには細かいことを言ってもダメという仰木の言葉通りに、山田久志投手コーチもピンチでマウンドへ行くと「小細工せず強気で攻めろ!」と喝を入れた。鈴木には緻密なID野球より、オリックスの自由な環境が性にあった。

「“再生工場”と呼ばれる野村監督のところに居て、芽が出ず、ウチで花が開いたんだから、皮肉な話だな」
 
 仰木監督はそう言って笑い、鈴木を“超二流”の選手と称えた。一流のスター選手は少ない。チームが勝つためには数多くいる二流選手をどう活かすかが大事なのだと。「花は咲き時、咲かせ時」というのは恩師の三原脩の言葉だが、トレードで来た選手は、大事に育てるドラフト1位の投手とは違う。“咲かせ時”はそう多くないのだ。だから、酷使と言われようとうまくいっている時期により輝くよう無理を承知で投げさせた。鈴木も懸命にその起用に応えたわけだ。

獅子奮迅の登板に不安も口に


 週べ97年1月27日号には「移籍1年目からわずか3年で実に年俸10倍増の大飛躍。オリックス城のシンデレラボーイ」独占インタビューが掲載されているが、獅子奮迅の投げっぷりについて、本人はこんな不安も口にしていた。

「移籍1年目に55試合に出場したときは「毎年あることでもないだろうから」と思っていたら、2年続けてですからね。それでも故障という故障はありません。でも、自主トレで肩を動かし始めると、どうしても痛くなるんですよ。この痛みが、シーズンが始まるまでに本当に消えてくれるのか、今から心配です」
 

00年、01年は中日、02年はダイエー[写真]でプレーしてユニフォームを脱いだ


 この悪い予感は的中してしまい、97年は右肩痛と右ヒジ炎症でリタイア。それでもオリックス在籍時は5年連続40試合に登板と役割を果たした。エリートでもドラ1入団でもない自分が、プロの世界で生き残るにはひたすら投げるしかないと理解していたのだ。夢見る頃は過ぎて、現実を生きる。ベテランになった? いや、鈴木は大人になったのである。その後、中日やダイエーでもプレー。2002年まで現役生活を続けた。

「がんばろうKOBE」を合い言葉に連覇を達成した、あの頃のオリックス・ブルーウェーブ。チームの顔は3年連続MVPのイチローだが、陰のMVPと称されたのは“もうひとりのスズキ”こと背番号43の鈴木平だった。

文=中溝康隆 写真=BBM
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