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プロ野球回顧録

先発投手タイトルを総ナメにしMVPに。近鉄・野茂英雄、鮮烈デビュー!【プロ野球回顧録】

 

29試合に登板し、3825球を投げ込んだ。トルネード投法と呼ばれた独特フォームから剛速球と魔球フォークを投じ、幾多の記録を塗り替えた。1990年、近鉄の新人・野茂英雄。その奇跡の1年を追う。

シーズン最終登板の笑顔


全球、魂を込めて投げ込んだ野茂


 1990年10月18日、ロッテ戦。すでに消化ゲームながら近鉄の本拠地・藤井寺球場には1万6000人の観客が集まった。これが近鉄のシーズン最終戦だ。当初、ドラフト1位新人・野茂英雄の先発予告をしていた仰木彬監督だったが、1年間の疲労と、ほぼ手中に収めていた防御率のタイトルも考え、前日になって“回避宣言”。打者1人だけの顔見せとなった。

 1点リードの9回表、右翼のブルペンに通じる扉が開き、横浜球場でのオールスター以来となるリリーフカーで登場。その瞬間、猛牛党の地鳴りのような歓声、割れんばかりの拍手、メガホンを激しくたたく音……要は、それぞれが自分で表現できる限りの応援を送った。

 公式戦最後の登板は、ロッテの堀幸一相手に全5球すべてストレートで三振だ。カウント2−2からの最後の1球は148キロを計時した。再び歓声、拍手、メガホン、そして紙吹雪も舞った。

 そのあと、「ピッチャー、野茂に代わり吉井」のアナウンスが場内に流れる。汗をぬぐったあとマウンドを降り、野茂がスタンドに向かい、頭をペコリと下げ、また大歓声が起こった。

 試合後の選手サロンで会見。報道陣の質問に、野茂がいつものように少し不機嫌そうな口調で淡々と受け答えをする。

「一つひとつ勝つことだけを考えて1年間やってきました。その結果がこういう形になったと思います。タイトルはみんなどれも同じようにうれしいです」

 この日の投球については「三振は狙っていました。全部ストレートです」ときっぱり。シーズンが終わってからやりたいことを聞かれ、「ゆっくり休みたいです」と言った。そのときの笑顔から濃厚だったシーズンを終えた安堵感が伝わってきた。

 会見が終わり、一度、立ち上がり帰りかけた野茂だが、くるりと振り返って「来年もよろしくお願いします!」と頭を下げ、「(オフは)静かにしといてくださいね」と言ってニコリと笑った。

奪三振ラッシュ!


 89年11月26日、ドラフト会議で史上最多8球団が1位で競合の末、近鉄が交渉権を引き当てた。新日本製鐵堺の所属で、88年のソウル五輪ではエースとして銀メダル獲得の原動力にもなる。打者に一度背中を見せる独特のフォームからの剛速球とフォークが武器だった。

 入団交渉の際、野茂を初めて見た仰木監督は、報道陣に向かい、ジョーク交じりで「先行逃げ切り、後方からの差し、どちらでもいけそうやね。オグリキャップ(当時の人気の競馬のサラブレッド)みたいやな」と仰木流の例えをしていた。

 ぶっきらぼうにも見えるが、実際にはおおらかで真っすぐな人柄。何より野球小僧だ。クセ者ぞろいの近鉄ナインと最初は距離があったようだが、すぐ溶け込んだ。

 ただ、キャンプから報道陣、解説陣の評価は決して高くなかった。「太り過ぎ」と言われ、紅白戦で2発食らうと「フォームを変えたほうがいい」という声が出た。オープン戦でもピリッとせず、「しょせん10勝10敗の投手ではないか」とも言われたこともある。

4月10日、初登板での西武・清原との対決


 公式戦初登板は、4月10日の西武戦(藤井寺)だった。近鉄各線のターミナル駅では昼過ぎから「野茂先発」をアナウンスし、2万3000人が集まった。野茂は6回を投げ、5失点で敗戦投手。それでも初回、“パの四番”と言われていた清原和博との初対決はプロ初となる三振に斬って取った。「60点ぐらいの出来。負けたからやっぱり悔しいです」と言いながらも「清原さんと対戦したときは力が入りました」とも話していた。

 清原に関しては、そのあとも「何としても力で抑えてやろう。この人に打たれたら、この試合負けだなと思って投げていた」と言う。2人の対決は、やがて「平成の名勝負」とも呼ばれ、力と力の対決でファンを大いに沸かせていく。

 その後、18日のオリックス戦(日生)では7失点で2敗目。「1球1球の間隔が長過ぎる」「テンポが悪い」などと言われ、のち「あのころが一番つらかったですね。寮の部屋しかいる場所がない感じで」と話していた。

 初勝利は4月29日、4試合目だった。相手はオリックス(西宮)。150キロ近い剛速球とフォークボールで三振の山を築き、当時の1試合奪三振最多タイ記録となる17三振を奪い、2失点完投勝利。15対2の大勝とあって試合後、初勝利に喜ぶより「あれだけ点を取ってくれたから、逆にバックのみなさんにリズムに乗せてもらったことが大きいです」とナインへの感謝を強調した。

 仰木監督の方針もあって球数も多かった。5月8日のダイエー戦(北九州)は10回裏、守備の乱れもあってサヨナラ負けしたが、14奪三振180球の完投。中4日で登板した13日のオリックス戦(ナゴヤ)は12奪三振122球の完投勝利だ。3試合で43奪三振だからすさまじい。

三振は意識しない


 勝ち星が積み上げるにつれ、“雑音”は減り、野茂人気が高まる。球団が独特のフォームのニックネームを公募し、5月26日、竜巻を意味する「トルネード投法」と名付けられた。さらにメジャー・リーグの速球王、ドワイト・グッデンの異名から「ドクターK」とも言われ、球場にたくさんの『K』ボードが掲げられるようになった。

 ただ、野茂自身は三振に話題が集中するのを嫌がっていた。当時、三振について聞かれるたび「三振は意識しません。僕はただ、投げたときは必ず勝つことだけを考えています」ときっぱり言っている。

 18勝目を挙げた10月10日の西武戦(西武)は1失点完投。12奪三振でシーズン21度目の2ケタ奪三振。阪神江夏豊が1968年につくった日本記録20試合を更新した。

「ベンチで、あと何個で2ケタと言っていましたから知っていました。でも、別にどうということはありません。それで終わったわけじゃないですから」

 と野茂は無表情を崩さなかった。それは「周りに流されるのが嫌だったんです。自分のやり方を変えたら終わりや」という信念からでもあった。

 結局、野茂は投手4タイトル(最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率)を独占。新人王、ベストナインに選ばれ、優勝チームではないが、MVP、前年からパの投手も対象になった沢村賞のパ第1号ともなった。

 さらに最終戦、堀から奪った287個目の奪三振でシーズン奪三振率も10.99となり、これも68年、江夏の10.97を更新する当時の日本最高記録となっている。

写真=BBM
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