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プロ野球回顧録

落合博満監督の「1点を守り勝つ野球」で白星を引き寄せた長打力。オレ竜“最恐”助っ人・ウッズ【プロ野球回顧録】

 

米国産、アジアで育った大砲


06年には球団記録を塗り替える47本塁打、144打点をマークしたウッズ


 在籍4年で155本塁打。チームをリーグ優勝と日本一に各1度ずつ導いた実績を考えれば、タイロン・ウッズに「ドラゴンズ史上最強助っ人」の称号を与えても異論はあるまい。

 アメリカ生まれだが、アジアで育った大砲である。メジャー経験はなし。高く厚い壁を突き崩せず、韓国に活路を求めた。アジアにやってくればそのパワーは規格外。あっという間に潜在能力を発揮し始め、ウワサを聞きつけた日本球界からもオファーが舞い込んだ。2003年に横浜(現DeNA)入団。当初は“保険”扱いだったが、一気に頭角を現し本塁打王に輝いた。翌年も連続キング。リーグ王者の中日が口説き落とし、05年に移籍した。

 就任1年目はほぼ補強を行わず「現有戦力の10パーセント底上げ」を掲げ、本当に優勝したのが落合博満監督だ。そのオレ竜が、2年目にはウッズを強奪に動いたのはなぜか。すでに実績十分だったから、年俸3億円超の2年契約と言われるが、出来高条項などを含めると実態はもっと大型だったはずだ。

「最初の優勝より、連覇ははるかに難しいことなんだ」。落合監督はV2を呼ぶ最強の使者を招いた理由をこう語っている。交流戦がスタートしたシーズンでもあるこの05年は、絶好の開幕ダッシュを果たしながらウッズの暴行&出場停止から大失速し、連覇を逃した。しかし、落合政権下の8年で最強だったと言われる翌06年はウッズの打棒が大爆発した。

 47本塁打、144打点はいずれも球団記録を塗り替え、二冠。広くて投手有利のナゴヤドーム(現バンテリンドーム)を本拠地にして以降、球団初の本塁打王でもあった。荒木雅博井端弘和の一・二番コンビがかき回し、首位打者を獲得した福留孝介が三番に座る。後ろにウッズが控えていることで、相手バッテリーは福留との勝負を選ばざるを得ないのだ。

 パワーのある外国人にありがちな、ボール気味の球を強引に振るスタイルではなかった。本塁ベースから大きく離れて立ち、苦手意識のある内角球に対処する。かといって相手が無難に外角球で散らそうとすると、長いリーチでバットが届く。届きさえすれば、ウッズはナゴヤドームでも右翼席に運ぶ力があった。こうした打ち方を覚えたことが、アジアで才能を開花させた理由だろう。

印象に残る藤川との勝負


2000年代のドラゴンズ黄金時代を担った[左から]ウッズ、福留、立浪


「試合前にメンバー表を書くときに、四番のところで迷わなくていい。監督をやっていて、こんなに楽なことはないんだよ」

 これも落合監督がよく話していた言葉である。四番はできれば右打者がいいというのも持論である。たしかに「1点を守り勝つ野球」を8年間貫いた落合竜だが、その1点は小技でもぎ取ると決めていたわけではない。ヒリヒリする勝負を繰り広げる中で、ウッズの長打力が白星を引き寄せたことは何度もある。例えば06年のリーグ優勝を決めた試合は、ウッズが46号3ランを放ち、延長戦に入って福留の決勝打の直後にウッズが満塁弾で突き放した。ダイヤモンドを回り、ウッズを出迎える落合監督の目には、もう涙がたまっていた。

 阪神藤川球児との名勝負もファンの印象に残っていることだろう。07年の9月には同点の9回、二死二、三塁から実に11球すべてストレートで挑んできた藤川から、センター前に決勝打を放った。08年のクライマックスシリーズ第3戦では、両チーム無得点の9回、二死三塁でやはり全球ストレート勝負の6球目の150キロをとらえ、左中間スタンドに決勝本塁打を打ち込んだ。

「藤川はベストピッチャー。打たれて悔いが残る球は投げてこないと思っていた」。ウッズのこのコメントだけを見ると分かりきった球種を投げる藤川(捕手の矢野燿大は変化球を要求していた)が無謀だと思うかもしれないが、この2人の勝負は圧倒的に藤川に分があった。落合監督も「抑えのエースと四番の勝負。見応えあったでしょ? あれぞ野球の醍醐味」と立場を超えて賛辞を惜しまなかった。

 間違いなく記録にも記憶にも残るオレ竜最恐の外国人だった。

写真=BBM
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