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逆転野球人生

柏田貴史、巨人二軍投手が“野球留学”をきっかけにまさかのメジャーデビュー!【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

ドラフト外で巨人へ


97年、メッツで史上5人目の日本人メジャー・リーガーとなった柏田


 社会に出て数年経過した頃、人は壁にぶつかりがちだ。

 こんなはずじゃなかった……自分はもっとできるはず……。そして、20代中盤から後半にかけて環境を変えたいと転職や海外留学を試みる。かつて、プロ野球でも海外留学がきっかけで野球人生を劇的に変えた選手がいた。

 元・巨人柏田貴史である。熊本の八代工高時代は、ノーヒットノーランを3度も達成する九州屈指の左腕投手だった。県下で「投の柏田、打の前田智徳(熊本工→広島)」とまで称されたサウスポーは、89年ドラフト外で巨人入り。84番のユニフォームをもらったが身分は練習生だ。ファームの試合にすら出られなかったので、毎日ひたすら走って基礎体力をつけた。オーバースローからの140キロ超えの直球に2種類のカーブが武器の本格派。2年目にファームで挙げた2勝はいずれも完投勝利だった。制球力さえつけば一軍でも通用すると評価する声もあったが、当時の巨人は投手王国でなかなかチャンスがめぐってこない。

 特に先発陣は斎藤雅樹桑田真澄槙原寛己の三本柱が全盛期を迎え、さらに二ケタ勝利経験のある宮本和知香田勲男らが裏ローテにいる充実の布陣だ。自分がこのチームで生き残るには、左の中継ぎ枠しかないだろう。ワンポイントでもいいから、左打者を抑えるために柏田は93年春からサイドスローへ転向。週べ選手名鑑の理想の女性タイプはプロ入り時から「森高千里」一筋の九州男児は、“堀内恒夫コーチの秘蔵っ子”と期待され、5年目の94年に初の開幕一軍切符を掴むと、4月14日の横浜戦で2番手として3回3分の2を無失点に抑え、涙のプロ初勝利を挙げた。嬉しさと同時に技術や体力面で自身のクリアすべき課題も見つかったという。しかし、ここから伸び悩む。95年にはイースタンの最多勝を獲得も、一軍ではわずか2試合の登板。オフに元木大介らとともにハワイのウィンター・リーグへ派遣されたが、チームがリーグ優勝した96年も8試合の出番に終わる。

軽い気持ちで渡米すると……


95年には元木[右]らとともにハワイのウィンター・リーグへ


 気が付けば、25歳だ。危機感は当然あった。プロ7年間で26試合しか投げていない。何かを変えなければ……。このままじゃ俺は終わってしまう。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない。97年1月下旬のある日、いきなり巨人側から柏田に対して「球団の事務所に来てほしい」と電話が入ったのだ。さすがにキャンプイン直前のクビはないだろう。ならばついにトレードか……。

 移籍の覚悟を決めて事務所へ行くと、意外な提案をされる。チームメイトの谷口功一とともに2月中旬から、ニューヨーク・メッツのキャンプに研修生として参加しないかという誘いだ。要は野球留学である。谷口もまた91年ドラフト1位ながらも故障に泣き、低迷していた。フロントから「ちょっと向こうのキャンプに参加してみろ」と言われ、「野球人生の転機になれば」なんて軽い気持ちで柏田はこの案を受け渡米する。それがすべての始まりだった。

 当時のメッツで指揮を執るのは、ロッテでの監督経験もあるボビー・バレンタイン。日本時代から柏田に目をつけ、実際にキャンプで投げる姿を確認すると、なんと巨人側に譲渡を申し入れる。アメリカでは珍しい変則左腕が通用すると踏んだのだ。柏田はほとんどお客さん気分から、まさかの展開にキャンプ終了後に一時帰国。もしかしたら、これは一生に一度のチャンスかもしれないぞ。人生を懸けてみる価値があるんじゃないか……。プロになって初めて球団の上層部に自分の意志を言葉にして、「行かせてください」とアメリカでのプレー希望を伝えた。話はとんとん拍子で進み、自由契約選手として、巨人とメッツとの間で金銭トレードが成立。スムーズに移籍が決まったといえば聞こえはいいが、裏を返せば当時年俸1250万円の8年目サウスポーは、巨人ではほとんど戦力として考えられていなかったということでもある。

アメリカン・ドリームを実現させた男


メッツでは貴重な変則左腕として35試合に登板


 譲渡金と新年俸はそれぞれ15万ドル(約1900万円)で、契約期間は1年。ビザ取得と同時の4月11日に再渡米。3Aノーフォークでの19日間のマイナー調整を経て、5月1日にはメジャー昇格を勝ち取るわけだ。正直、数年前からメジャーを夢見ていたわけではない。95年に野茂英雄がドジャースへ移籍して、日本での試合中継が増えたので自然と目にするようになったが、はっきり言ってジャイアンツ球場でくすぶる自分には別世界の出来事だった。

 その自分が背番号18をつけ、史上5人目の日本人大リーガーだ。シェイ・スタジアムでの初登板は3番手としてマウンドに上がると、1回無安打1三振の上々デビュー。5月18日のロッキーズ戦は2安打1失点の不本意な投球も、味方が逆転して自身7試合目にして初勝利が転がり込み、スタッフが用意してくれた日本製のビールで乾杯した。立花龍司フィットネスコーチとのトレーニングの成果で、速球は自己最速の90マイル(144キロ)を記録し、シンカーも日本時代よりも落ちるようになった。この26歳のリリーバー柏田の活躍は「アメリカン・ドリームを実現させた男」と日米メディアで大きな話題となる。

 全米No.1の発行部数を誇るニューヨーク・タイムズ紙に、投げたあとに右足一本でマウンドに立つ独特のフォームを「フラミンゴ投法」と大きく紹介され、週ベ97年7月28日号では昨年までの同僚で評論家の水野雄仁が、ニューヨークで柏田を直撃インタビュー。「おいおい、ジャイアンツにいたときは、あれだけウエート・トレーニングが嫌いだった柏田が、そんなにやってるの?」なんて突っ込む先輩に対して、シンデレラボーイも饒舌に近況や日本時代を語る。

「あのまま巨人にいても、かなり高い確率でファームにいたでしょうからね。だから、今年は投げる喜びを感じています」とか、古巣の先発投手がリリーフ起用されることについて「特に木田(優夫)さんなんて一番かわいそうだと思いますよ。メジャーのように役割分担をキチッと決めれば、みんなそれなりに活躍すると思うんですけどね」とチクリ。すでに分煙化が進んでいたアメリカでは、自然とタバコも吸わなくなったと嬉しそうに語っている。

 さらに『週刊宝石』97年7月31日号「旬のひと」コーナーで柏田を特集。日本では上下関係もあり、下っぱの自分は萎縮していた部分もあったが、もうそんなのは気にしない。ニューヨークではホテル住まいで、休日に街を散歩するのが楽しみだ。日本料理店も多数あり食事は問題なかったが、アメリカのソープ類は匂いが強く、シャンプーやボディソープは日本製のものを買いに行く。アメリカの独立記念日の打ち上げ花火を球場のベンチから見て、日本の花火大会を思い出し、少し祖国が恋しくなることもあった。それでも、柏田はこう力強く笑うのだ。

「これから人生何十年もありますから、今がいちばんいいときかどうかは分かりませんが、今までの僕の人生の中では、いちばん楽しいときを過ごしているのは間違いないでしょう」

98年から巨人に復帰


 オールスター戦までに22試合に投げるも、夏場に調子を崩し8月5日にマイナー降格。選手枠が40人に増える9月になるまでメジャー復帰はお預けとなったが、渡米1年目は35試合、3勝1敗、防御率4.31という成績で終えた。日本での7年間でたった1勝しかできなかった男が、半年間のメジャー生活で3勝を挙げてみせたのだ。そのオフには日米複数球団から誘いがあり、柏田は巨人に対して移籍時のいきさつに不快感を露わにするも、11月24日の巨人選手会納会に浴衣姿で参加。年俸2500万円という提示金額からも分かるように決して評価は高くなかったが、98年から古巣復帰を果たす。

巨人に復帰後、00年には50試合に登板して優勝に貢献


 復帰1年目こそ「昔とは違う自分を見せる」と気持ちが空回りしてしまうが、アメリカでつけていたノートを読み返し自分の経験を整理して臨んだ99年には、自己最多の52試合に登板。2000年には50試合で防御率2.89と、背番号49は貴重な左の中継ぎとして長嶋巨人のリーグVに貢献した。その後、左ヒジ手術も経験した柏田は05年まで現役を続け、日米通算238試合の内、212試合は渡米した97年以降に投げている。

 20代前半の二軍でくすぶっていたあの頃、気分転換にでもなればと向かった海外留学がきっかけになった逆転野球人生。なにがプラスになるか、どこにチャンスが転がっているかなんて誰にも分からない。ただ、自分のような二軍選手でもメジャーで通用するんだという意地が背中を押した。舐められたまま終わりたくなかったのだ。巨人復帰後にベースボールマガジン「リリーフ投手列伝」の独占インタビューで、柏田はあの夢のような時間をこう振り返っている。

「野茂さんに始まり、今のイチローのように、そこを目指して行ったというわけではない。キャンプの時点から『ちょっと面白そうな投手』と言われ、あれよあれよという間にメジャーのマウンドに立ってしまった。僕だけは特殊なメジャー・リーガーでしたから(笑)。ひたすら必死に投げていただけで、いろいろと考える余裕はあまりなかったですよ」

文=中溝康隆 写真=BBM
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