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プロ野球回顧録

02年Vへ導く圧巻の「55本」。規格外の腕っぷしで数々の驚弾を放ったカブレラ【プロ野球回顧録】

 

フルスイングも「軽々と」


ケタ違いのパワーを誇ったカブレラ。チャンスにも強かった


 打席で背中をそらす独特の構えを、当時の高校球児も真似た。ただ、その本塁打の飛距離までコピーすることはできなかった。

 まさに規格外の腕っぷし。どの本塁打と断定することは難しいが、プロ野球で最も飛んだ本塁打は、おそらくアレックス・カブレラのバットから生まれている。フルスイングには違いないが、豪快なフルスイングというよりは、軽々とフルスイングして、軽々と本塁打にしているようにも見えた。

 ベネズエラ出身。7歳で野球を始め、最初は投手だったという。1991年5月にドラフトでカブスに指名されたものの、芽が出ないまま96年オフに解雇。メキシコや台湾の球界を経て、2000年にダイヤモンドバックスでメジャーデビュー、初打席本塁打も飾ったが、故障もあってダイヤモンドバックスが西武に契約を譲った。

 来日1年目の01年から49本塁打、自己最多の124打点。シーズン後半は本塁打のペースを落としたものの、前半の量産は凄まじかった。さらに、オフには母国ベネズエラのウインター・リーグでプレーしながら調整を続けた。

「年間を通じてバッティングの感触を大事にしたいんだ。野球ばかりで疲れたりはしないサ」

 日本球界を去ってから、メキシカン・リーグでプレーしていたとき、ドーピング疑惑で永久追放処分に。カブレラは潔白を主張、処分も解除されたが、疑いを向けたくなる気持ちも分からないではない。まさに疲れ知らず、驚異のパワーを誇った“カリブの怪物”だった。

最高飛距離160メートル


超人的な飛距離を生んだ二の腕


 圧巻は西武2年目の02年だ。序盤は広くなった新ストライクゾーンに苦しみ、6月には腰痛で9試合の欠場もありながら、7月に11本塁打、8月には15本塁打と、次々に打球をスタンドへ叩き込んでいく。最終的には64年の王貞治(巨人)、01年のタフィ・ローズ(近鉄)の当時プロ野球記録に並ぶ55本塁打。中堅から右方向へと打つ意識だったというが、55本のうち40本は左翼方向で、この数字からも腕っぷしの強さが分かる。

 最高飛距離は160メートル、平均飛距離は113.9メートル。飛距離も凄まじいが、カブレラが本塁打を放った試合の西武は36勝11敗で、ただ遠くに飛んでいっただけではなく、勝利に貢献する本塁打でもあった。そして西武はリーグ優勝、カブレラも本塁打王だけでなくMVPにも輝いた。だが、日本シリーズでは巨人に4連敗と完敗。本塁打に関しては淡々としている印象もあるカブレラが、悔しさのあまり守備中に座り込む場面もあった。

 屈辱を晴らしたのは、その2年後、04年の中日との日本シリーズだ。ペナントレースでは死球で骨折して3カ月の離脱。復帰してからハイペースで打ちまくり、最終的には64試合で25本塁打を放ったが、西武は頂点に届かなかった。だが、導入されたばかりのプレーオフで勝率1位のダイエーを下して(優勝)日本シリーズに進出すると、カブレラはペナントレースの鬱憤を晴らすかのように3本塁打。第3戦(西武ドーム)では4回裏の第2打席で2ラン、7回裏の第4打席ではグランドスラムを放つと、両腕を高々と突き上げて打球を見送った。

ハイペースで本塁打量産


 08年からオリックス、11年からソフトバンクでプレーして、12年シーズン途中に退団。03年の50本塁打を最後に、シーズン50本塁打の大台を超えることはなかった。それでもハイペースには違いなく、通算100号はブライアント(近鉄)に続く2位、250号はラルフ・ブライアントと並ぶ1位タイだが、150号、200号、300号、そして350号の到達はカブレラが単独で最速だ。

 一方、当時は次々にドーム球場が開場した時代でもある。東京ドームで初めて天井に打球を当てたのも、認定本塁打としたのもブライアントだったが、ドーム球場の逸話ならカブレラも負けていない。55本塁打で当時のプロ野球記録に並んだ02年には、推定飛距離200メートルの打球を東京ドームの天井に当てたものの、フェアグラウンド内に落ちてインプレーとなり、単打に。もしこれが本塁打となっていたらシーズン56本塁打となり、当時のプロ野球記録を更新していたことになる。

写真=BBM
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