週刊ベースボールONLINE

プロ野球回顧録

伊藤智仁、吉村禎章、中里篤史…将来嘱望も「ケガに泣かされた」選手たちは

 

 プロ野球の世界で「天才」と呼ばれた選手たちがいる。ただ、すべての選手たちが活躍できたわけではない。彼らを苦しめたのはケガだった。まばゆい輝きを見たファンからすれば、全盛期が続いていたらどうなっていたのだろうと思いをはせてしまう。伊藤智仁吉村禎章中里篤史……短い期間だったが、放った光は強烈だった。

魔球「高速スライダー」の衝撃


柔らかい腕のしなりから驚異の変化をするスライダーを投げた


・伊藤智仁(ヤクルト)
通算成績 127試合登板、37勝27敗25セーブ、防御率2.31

 魔球と呼ばれる「高速スライダー」は衝撃だった。1992年のドラフトで広島オリックス、ヤクルトが1位指名で競合し、ヤクルトに入団した。150キロ近い手元で伸びる直球に加え、真横に滑るような140キロ台のスライダーに打者のバットが空を切る。右打者は自分に当たると思ってよけたら、鋭くストライクに曲がり唖然とした表情を浮かべることも。直球とスライダーの球速差が少なく相手打者は球種を見極められない。対策の施しようがなかった。

 最も印象深いのは6月9日の巨人戦(石川)だ。リーグタイ記録の16奪三振をマークしたが、0対0の9回二死で篠塚和典にサヨナラアーチを浴びて敗れた。敗戦にうなだれるベンチで伊藤の姿が「悲運の投手」を象徴しているように見えた。7月上旬にケガで戦線離脱したが、開幕からの実働3カ月で7勝2敗、防御率0.91。計1733球を投げて12試合先発で5完投4完封、109回で126奪三振と圧巻の数字で同期入団の巨人・松井秀喜に圧倒的な差をつけて新人王を獲得した。

 だが、2年目以降は度重なる右肩痛、右ヒジ痛で満足に投げられず。97年に7勝19セーブでカムバック賞を受賞したが、その後も故障が再発し、リハビリに明け暮れた。現役最後の登板は03年10月の秋季コスモスリーグ・巨人戦。投じた球はすべてナックルだった。

際立っていたミートセンス


広角に打球を飛ばし、スタンドインさせるパワーも持っていた


・吉村禎章(巨人)
通算成績 1349試合出場、打率.296、149本塁打、535打点

 吉村のケガがなかったら巨人の歴史は変わっていた――こう言われるほどの天才打者だった。PL学園高で高3春のセンバツ初制覇に貢献する。82年ドラフト3位で巨人に入団。高卒2年目の83年に84試合出場で打率.326、翌84年は115試合出場で打率.342、13本塁打で右翼の定位置をつかむ。そのミートセンスは際立っていた。どの球種、コースにも体の軸がぶれず、ヒットゾーンに飛ばす。俊足と強肩にも定評があり3拍子そろった選手だった。

 85年は初の規定打席に到達し、打率.328、16本塁打、56打点で出塁率.428を記録する。飛距離も伸びるようになり、すごみを増していく。87年には打率.322、30本塁打、86打点と自己最高の成績を残す。当時まだ24歳。無限の可能性が広がっていた。

 悲劇は思わぬ形で起こった。88年7月6日の中日戦(円山球場)。3回に通算100号本塁打を放ってメモリアルゲームとなるはずだったが、8回の左翼守備で中尾孝義が放った左中間の飛球を捕球した際、この回から中堅の守備に入った栄村忠広と激突。吉村は倒れ込んだまま動かない。左ヒザの4本の靭帯のうち3本が完全に断裂し、腓骨神経も損傷する大ケガだった。日本の医療レベルでは治療できないため渡米。スポーツ医学の名医として知られるフランク・ジョーブ博士が執刀した。翌89年2月に再手術してじん帯は回復していたが、神経が戻らない。足首から先を自力で動かせないため、リハビリ用に特注したバネつきのギブスをつけた。

 89年9月2日のヤクルト戦(東京ドーム)で復帰。代打で二ゴロを放った吉村は感極まり、走りながら泣いていた。レギュラーで常時出場することは叶わなかったが、90年に打率.327、14本塁打、45打点で優勝を決めるサヨナラ本塁打も放った。その後も「代打の切り札」で勝負強さを発揮。波瀾万丈の野球人生だった。

球界を代表するエースになれた逸材


キレのある直球の威力は抜群で輝かしい未来を予感させた


・中里篤史(中日、巨人)
通算成績 34試合登板、2勝2敗、防御率4.65

 美しい投球フォームから糸を引くような直球は絶品だった。中里は故障に泣かされてプロ通算2勝のみに終わったが、「球界を代表するエースになれた逸材」と惜しまれた。

 埼玉県出身の中里は春日部共栄高に入学。本多利治監督の方針で、「直球だけで三振を奪える投手」を目指した。3年夏の埼玉県大会。5回コールド勝ちした初戦で15個すべてのアウトを三振で奪い、完全試合(参考記録)を達成する。決勝戦で浦和学院高の坂元弥太郎(元ヤクルトほか)と投げ合い、延長10回を投げ合ったが1対2でサヨナラ負け。甲子園出場はならなかったが、「素材は高校No.1」と明言するスカウトは多かった。

 2001年ドラフト1位で中日に入団。高卒1年目のフレッシュオールスターゲームで150キロを計測し、一軍の舞台で2試合登板するなど順調な滑り出しだったが、02年の春季キャンプ中にアクシデントに見舞われる。宿舎の階段で転倒しそうになり、手すりをつかんだ際に脱臼。右肩関節唇および同関節包の損傷で、投手生命が危ぶまれる重傷を負った。2年間リハビリに励んだが、03年オフのトレーニング中に右肩を再び故障。背番号は「28」から「70」と重い番号に変わった。翌04年も一軍登板なしに終わる。

 05年に4年ぶりに一軍昇格。復帰登板の10月1日の広島戦(ナゴヤドーム)で1回無安打無失点とプロ初勝利をマークした。同年はこの1勝だけに終わったにもかかわらず、同年オフに背番号が「70」からエースナンバーの「18」に変更したことが、球団の期待の大きさを物語っていた。06年は自己最多の13試合に登板。高めにホップする球に復活の予感を感じさせたが、再び悲劇が起きた。07年にバランスボールから落下して左ヒジを骨折して一軍登板なし。手元でホップする直球をその後は取り戻せなかった。09年は2試合登板で防御率6.23。戦力外通告を受けて巨人に移籍し、11年限りで現役引退した。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング