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逆転野球人生

阪神で“本塁打0”の北川博敏 なぜ近鉄に移籍し「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定弾」を打てたのか【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

巡ってこないチャンス


阪神入団1年目の95年、ジュニアオールスターでMVPに輝いた


 たった1本のホームランで、人生が劇的に変わることがある。

 近鉄時代の北川博敏もそうだった。2001(平成13)年9月26日に放った「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打」で一夜にして運命を変えたのだ。当時29歳、球史にその名を刻んだ彼もまたトレードにより、崖っぷちから甦った選手のひとりである。

 大宮東高時代は右肘に不安があり本職は内野手だったが、高校3年の夏にチーム事情で捕手をやり、背番号5を着けたまま甲子園にも出場した。日大に進学すると、東都リーグで首位打者を獲得。日米大学野球のメンバーにも選出され、94年ドラフト2位で阪神タイガースに入団する。阪神にやって来た大卒で強打の右打ち捕手、それだけで在阪マスコミは“田淵2世”と盛り上がった。1年目のジュニアオールスターには全ウエスタンの四番として出場すると逆転タイムリーを放ち、MVPを獲得。週べの「ジュニアオールスターMVP男を直撃!!」インタビューでは、「3年前にイチロー選手がMVPを取ったときにたまたまテレビでその試合を見ていて、すごく格好いいな〜って思って、印象に残っていたんです」と喜びを語る一方で、自チームの二軍戦では捕手より一塁を守ることが多かったことについて、悔しさを露わにした。

「前半戦は悔しい思いをしましたね。捕手として入団したのに、いきなりコンバートというのもイヤじゃないですか。それに、捕手としてやれるところまでは精一杯やってみたい、という思いがありましたから」

 いつも笑顔の若トラは一軍に呼ばれるとベンチ前で吉田浩高波文一らと元気にヤジを飛ばし、藤田平監督からは謎の「カナリア・ブラザーズ」なんて名付けられた。2年目の96年ジュニアオールスターでも2安打を放ち優秀選手賞を獲得。その賞金で甲子園のスタンドに夏休みの親子ペア50組を招待するファンサービスにも積極的に取り組む、誰もが認める気のいいナイスガイ。だが、当時の阪神では山田勝彦関川浩一が正捕手を争い、85年V戦士のベテラン木戸克彦も健在でなかなかチャンスが巡ってこない。捕手だけでなく野手でも起用されるも結果を残すことはできなかった。

 前年オフに結婚した5年目の99年シーズンは、15試合で先発マスクをかぶるが、野村克也監督からは捕手として評価されず次第に出場機会を失っていく。中日から矢野輝弘が移籍して、監督の息子カツノリもヤクルトからやってきた。2000年は一軍でわずか10試合の出場に終わり、セールスポイントの打撃でも一本のヒットすら打てず打率.000。逆指名で入ったアマ球界屈指の打てる捕手のはずが、6年目シーズンを終えても一軍での本塁打数は“0”だった。28歳、そろそろクビを覚悟してもおかしくない立場である。

腐らずにプレーした結果……


 いつの時代も、二軍生活が長い中堅選手の扱いは難しい。プロで数年やれば自分の力がなんとなく分かってくるからだ。つまり、先が見えてくる。やがて一軍に上がることが目標ではなく、プロ野球選手でいることが目的になる。現状維持で1000万円を超える年俸と今の立場を失いたくないと願うのだ。そういう選手は、若手選手の成長に悪影響を及ぼし、やがてチームを腐らす。だから、球団も二十代後半をひとつの区切りとするわけだ。

 だが、北川はその手の中堅選手とは真逆だった。投げやりな態度は一切見せず、二軍戦でも決して腐らなかった。笑顔で声を枯らしてチームを盛り上げ、勝てば喜び、他の選手が結果を示せば嬉しそうに激励した。そんな楽しそうにプレーする北川に「ヘラヘラするな」と苦言を呈す先輩もいた。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない――。

 ウエスタン・リーグで相手ベンチの監督が北川を見て、「他人のことを喜べるタイプ。こういうヤツがチームにいたら」とその明るい性格と野球に対する姿勢に惚れ込んだのだ。当時、近鉄二軍監督を務めていた梨田昌孝である。梨田は2000年から近鉄一軍の指揮を執ることになり、さっそく球団にこう掛け合う。「阪神の北川をトレードで獲得してください」と。戦力としてはもちろん、それ以外のプラスアルファをチームにもたらすことのできる選手だからだ。

近鉄移籍1年目の01年4月28日のダイエー戦でプロ初本塁打


 そうして00年オフに湯舟敏郎山崎一玄とともに、酒井弘樹面出哲志平下晃司との3対3のトレードで近鉄へ移籍するわけだ。自分をまったく評価してくれなかった上司から、誰よりも自分を必要としているボスの下へ。プロ野球選手の成功に必要なのは、才能と訓練と出会いである。01年開幕直後、打撃不振に悩む北川に梨田は直接電話をかけて励まし、パ・リーグの野球に慣れるのを辛抱強く待った。

 すると次第に結果がついてくる。4月28日のダイエー戦で7年目のプロ初アーチをかっ飛ばすと、5月27日のオリックス戦ではプロ初のサヨナラ安打を放ち29歳の誕生日を自ら祝い、お立ち台では「サヨナラなんて生まれて初めて。やっと“いてまえ打線”の仲間になれました。29年生きてきて、最高の誕生日です」と涙で声を震わせた。6月9日の日本ハム戦でも立て続けに2度目のサヨナラ打。笑顔のラッキーボーイのヘルメットには誇らしげに貼られた「サヨナラ男」のシール。この年の近鉄は“いてまえ打線”が爆発して、前年最下位から西武やダイエーとのV争いを繰り広げていた。1年前にクビ寸前だった男は、優勝祈願で好きな酒も絶ち、新天地で“無類の勝負強さを持つ男”に生まれ変わったのだ。

訪れた思いと思いがスパークする場面


優勝を決めるサヨナラ満塁弾を放つと球場は興奮のるつぼに包まれた


 そして、01年9月26日、大阪ドームであの一撃を放つ。勝てば12年ぶりVが決まるマジック1で迎えたオリックスとの一戦は、2対5と3点リードされた敗色濃厚の9回裏、球史に残るドラマが起きる。あれよあれよという間に無死満塁のチャンスがお膳立てされ、梨田監督はベンチで準備をするひとりの選手と目が合った。その瞬間、いつも笑っているような顔の北川が目を輝かせ下唇をなめたという。選ばれし者の恍惚と不安、二つ我にあり。梨田は自著『近鉄バファローズ 猛牛伝説の深層』(ベースボール・マガジン社)の中でこう書く。

「信じた監督がいて、いつかは必ずと精進してきた選手がいる。長い1年というシーズンだ、たった一度でもいい。思いと思いがスパークする場面が訪れるに違いない。それが最後にやってきた。「代打、北川!」はまさに「その時」だったのである」

 時は来た。打席に向かう背番号46に指揮官は、「絶対に当てにいくな! 追い込まれたら三振でいいぞ!」とだけ伝えた。失敗を恐れず、思いっきり振ってこい。マウンド上の大久保勝信が投じたカウント1ボール2ストライクからの4球目、スライダーを一閃。少し体は泳いだが、打った瞬間にそれと分かる会心の当たりは、4万8000人の大歓声を切り裂き、左中間スタンドへ突き刺さった――。代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン。2001年9月26日21時38分、阪神のファームでくすぶっていた男は、近鉄で救世主になった。

球団合併でオリックスへ。12年までプレーし、引退試合で胴上げされた


 この年、北川は81試合で打率.270、6本塁打、35打点とあらゆる打撃部門で自己最高を更新。代打の切り札だけでなく、ときにマスクをかぶり、一塁も守った。内野に専念した04年には打率.303、20本塁打、88打点を記録。球団の吸収合併により05年からオリックスへ移籍すると、40歳の12年まで現役生活を続ける。通算102本塁打はすべて近鉄移籍後に放ったものだ。

 なお、「週刊ベースボールONLINE」読者が選ぶ「平成の名シーン」アンケートで侍ジャパンのWBC連覇を抑え1位に輝いたのは、あの一発だった。球史に燦然と輝く、代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン。とどのつまり、それは北川博敏の野球人生逆転ホームランでもあったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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