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伊原春樹コラム

外国人譲渡を阪神・星野仙一監督に直談判。その懐の深さは忘れられない/伊原春樹コラム

 

月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2022年4月号では星野仙一さんに関してつづってもらった。

日本シリーズでは森西武が圧勝


02年から03年は阪神を率いた星野監督


 星野ドラゴンズとは1988年、日本シリーズで対戦している。ただ、西武は黄金時代を謳歌しており、負ける気はまったくなかった。だから、星野さんの印象はそんなにない。まず覚えているのは初戦だ。中日の先発は小野和幸。前年まで西武に在籍して7年間で15勝だったが、中日に移籍してブレーク。18勝を挙げて最多勝を獲得していた。6年ぶりの優勝に貢献していた右腕が初戦に先発してきたが、2回に先頭で打席に入った清原和博がナゴヤ球場のレフト場外に消える先制ソロ。これで相手を意気消沈させると、5対1で西武が初戦勝利。第2戦は落としたが、西武球場に戻った第3、4戦と連勝して一気に王手をかけた。

 そして、第5戦。点の取り合いとなり、5対6と西武が1点ビハインドで9回裏を迎えた。打席には石毛宏典。このシリーズ、すでに2本塁打を放つなど好調だった石毛は郭源治の甘く入った直球を見逃さずにバックスクリーンへたたき込んだ。6対6の同点。試合は土壇場で振り出しに戻った。

 試合は延長に入り、11回裏。先頭の清原が中前打で出塁し、再び打席に石毛が入った。マウンド上では郭が続投。この場面、森祗晶監督が出したサインは送りバントだった。きっちりと石毛が仕事を果たし、続く立花義家が三振に倒れたあと、伊東勤がサヨナラ打を放って西武が3連覇を成し遂げた。

 前の打席で一発を放っていた打者に送りバント。これが黄金時代を築いた森監督の野球だ。いくら結果を残していても、いくら五番であろうとも、こういった状況で送りバントの作戦を取るのが森野球。シリーズMVPを獲得するほど活躍した石毛だったが、サヨナラ勝利で日本一のお膳立てとなる送りバントを森監督が求めてきたことに、まったく違和感は覚えなかっただろう。日本一のための自己犠牲の精神。それは黄金時代の西武ナインに、しっかりと浸透していた。勝てる確率を高めることだけを考えていた森野球の真骨頂だったと思う。

優勝に貢献した阪神からの移籍助っ人


 星野さんは91年まで中日の監督を務め、4年間の充電後、96年に指揮官として再び中日のユニフォームを着た。第二次政権は2001年まで続き、02年からは阪神の監督に就任。同年から私は西武監督としてチームを率いていた。当時は交流戦もない。オープン戦で阪神と対戦したときに星野さんと他愛のない会話を交わしたのは覚ええている。

 だが、シーズン中のことだ。前年、39本塁打を放ち、アレックス・カブレラとともに「ツインバズーカ」として力を発揮していたスコット・マクレーンが手首の故障で本調子が出ない。困った私は星野さんに電話をかけた。阪神には外国人枠の関係から二軍でプレーしていたトム・エバンスがいた。彼はマクレーンの守備位置だったサードを守れる。エバンスを譲ってくれないかと星野さんに直談判したのだ。星野さんは真摯に話を聞いてくれ、「そうか、考えてみる」と言って電話を切ったが数日後、「いいよ」と連絡が入った。5月に橋本武広との交換トレードで西武のユニフォームを着たエバンスはこの年、78試合に出場して打率.252、15本塁打。勝負強い打撃を見せてくれ、優勝に貢献してくれた。

11年から14年は楽天を率いた星野監督


 14年、私が2度目の西武監督に就任したときは開幕戦で星野さんが率いる楽天と対戦。松井稼頭央に本塁打を打たれるなどして連敗してしまった。その後、私は6月上旬に途中休養することになったが、星野さんは「どうしたんや」とすぐに電話をしてくれた。楽天で指導者をしていたあるコーチが「今年で終わりそうです」と一報をくれたとき、星野さんに「彼はもう少しやりたそうですよ」と連絡を入れたこともある。「分かった」と星野さんは言ったが、そのコーチはしばらく楽天でコーチを続けることができた。

 星野さんは本当に情に厚い人だったと思う。こちらのお願い事をしっかりと聞いて、真剣に考えてくれる。その懐の深さは忘れられない。

写真=BBM
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