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パンチ佐藤の漢の背中!

「立浪さんの中身は武士に近い」現在は木造ハウスメーカーに勤める元中日・山口幸司氏/パンチ佐藤の漢の背中!

 

野球以外の仕事で頑張っている元プロ野球選手をパンチ佐藤さんが訪ねる好評連載、今回のゲストは元中日で、現在は地元・埼玉で(株)アイダ設計に勤務する山口幸司さん。ドラゴンズでは立浪和義新監督の1年後輩です。上尾店のモデルハウスから、新生ドラゴンズへの期待感を語ってもらいました。
※『ベースボールマガジン』2022年2月号より転載

大学受験を考えていたら「星野監督に付いていけ」


自身最高の出場試合数だった92年の打撃


 パンチさんの現役時代、ウエスタン・リーグで対戦した中日ドラゴンズに、生きのいい若手選手がいた。体は小さいながらも上半身は厚みのある見事な逆三角形、足が速くパンチ力もある。「いい選手だな」と思って見ていたという。それが今回のゲスト・山口さんだった。

 実は「(大宮東)高校生のころから、ウエートトレーニングが好きだった」という山口さん。大宮東は公立校としては珍しく体育科があり、トレーニングルームも充実していたという。そんな高校時代から振り返ってもらった。

パンチ 体育科があったから、大宮東を選んだの? 埼玉県は選択肢が多いでしょう。

山口 少年野球のころ対戦して一度も勝てなかったバッテリーと、隣の中学校でライバル視していた選手が揃って大宮東に来るという話を聞いて、みんなで一緒のチームでやりたいなと思いました。

パンチ そういうメンバーと一緒にやれば、「もしかしたら甲子園に行けるかもしれないぞ」という思いもあっただろうけど、プロへの道も逆算してイメージした?

山口 いえ、プロはあまり考えていなかったですね。高校に入って甲子園を目標にしているうち、教員免許を取って高校野球の監督になるのもいいなと思うようになりました。

パンチ 実際、何年生ぐらいのときにプロから話があるようだって聞いたの?

山口 ちらっと聞いたのは、1年生のときです。

パンチ ということは、1年生からレギュラーだったんだね。

山口 はい。ただ僕の3学年上から2人、2学年上からも2人、プロに入っているんですが、その先輩方もなかなか試合に出られなかったり、ケガをしたりという話を聞いて、先に教員免許を取って、それからプロを目指してもいいのかなと思いました。

パンチ でも、指名されちゃった。

山口 実はドラフトの3日後ぐらいに、法大の試験を受ける予定でした。ところがドラフトの翌日、星野(仙一)監督が学校まで来ちゃったんです。僕はまだ退部届も出していなくて会えなかったので、校長先生と野球部の監督、顧問が星野さんと話をしました。それで星野さんが帰られた後、校長先生に呼ばれて、「彼に付いていけば間違いないから」と言われました。

パンチ氏[左]、山口氏


パンチ 完全に、星野さんの“星野ワールド”に持ち込まれたね(笑)。それで当初の予定より早く入ってみたプロはどうだった?

山口 1年目は二軍でずっと、スタメンで出してもらいました。そこに慣れてきたとき、ふと周りを見たら、自分は高校まで「長距離バッター」としてやってきたけれども、飛ばす人は二軍にもいくらでもいるんですよ。当時、山崎武司さんも二軍にいて、どこから見ても飛距離では勝てませんでしたから。

パンチ まあ典型的なホームランバッター、長距離砲だもんね。

山口 そういう人を見てしまうと、やはりスタイルを変えないと無理かなと自分でも思いましたし、打撃コーチの石井(昭男)さんや外野守備コーチの豊田(成佑)さんにも「もっと自分を生かした野球をやったほうがいいんじゃないか」と言われました。

パンチ 俺が一緒にやっていたときの記憶では、確かにホームランバッターではないけれども、ツボに来たらガンッと一発、という感じに見えていたよね。初めて一軍に上がったのはいつ?

山口 1年目(89年)の9月(9日=ヤクルト戦)、半ば消化試合に入りつつあるときでした。守備固めから入って、打席が回ってきたんです。相手投手が同期の川崎(憲次郎)で、若いころはストレートに自信があったので、ポテンヒットを打たせてもらいました。

パンチ 初打席初ヒットだったんだ! じゃあ自信になったね。

山口 その翌日、スタメンで出してもらったんですけど……。

パンチ ああ、そういう人だな、星野監督は。

山口 その次の日(9月11日)、初ホームランを打ったんですよ。相手はやはり同期の岡(幸俊)でした。だからベテランの、プロのエース級からは打っていないんです。

パンチ 結構、謙虚だね。一軍に上がったはいいけど何十打席打てないとか、そういう選手もいる中、コンコンっと打ったわけでしょう。

山口 ただそのツケだったか、2年目に結果が出ませんでした。二軍でも2割7分とか。1年目はとりあえず思い切りいけばいいや、と思ってやっていたのに、2年目は考え過ぎてしまったのかもしれません。

有名な“代走事件”がプロ生活一番の思い出


91年6月18日の大洋戦、サヨナラ本塁打を打った彦野の代走に起用された山口氏[背番号9]


パンチ そんなタイプだったんだ。イケイケ、ドンドンの感じかと思っていたよ。でもそんなスタートでも、11年もやれたんだから。その要因はなんだったと思う?

山口 やはり自分の形を変えたのが大きかったと思います。11年やった割には打席数もそんなに多くないし(800打席)、だいたいが守備要員、代走、代打、バントでしたけれども。

パンチ 山口君の現役時代に、ちょうど本拠地がナゴヤ球場からドームに変わったんだよね(97年)。どうだった?

山口 僕みたいな選手には、ナゴヤドームはうれしかったですね。ナゴヤ球場だと守っていて「捕れる」と思っても、ホームランになってしまう。ドームは広いから目いっぱい追いかけられて、守りやすかったですよ。打つほうでも三塁打が増えますし。ランナー一塁でも、野手の間を抜ければ楽にホームへ戻ってこられます。そういう意味ではドームで野球が変わったとき、必要な存在になれるのかなと思っていました。

パンチ 「たられば」の話だけど、法大に行っていたほうがよかったと思う? それともプロに飛び込んでよかったと思う?

山口 プロに行ってよかったと思います。大学に行って、そこで埋もれてしまう人も多いわけですし。

パンチ じゃあ、完全燃焼した11年間だったんだ。

山口 完全燃焼とまではいかなかったけれども、悔いはないですね。

パンチ プロでの一番素敵な思い出はなんですか。

山口 やはり僕に関して最もよく知られているのは、1991年(6月18日)の大洋戦で、彦野(利勝)さんが盛田(幸妃)さんからサヨナラホームランを打ち、ベースを一周する途中でヒザのじん帯を切って、僕が代走に出たこと。プロ野球史上、2人しかいないと聞いたことがあります。

パンチ 星野監督との思い出はどう?

山口 プロ初ホームランを打ってベンチに戻ってきたとき、星野さんと握手をしたんです。あのときの星野さんの「よく打ったな」という笑顔は、忘れられないですね。あと、これは結構あちこちで有名な話ですが、カミさんの誕生日に花を贈ってくださるとか、気遣いが素晴らしい方でした。

パンチ そうすると奥さんは、「あなた星野監督のためにも頑張るのよ」ってなるよね。

パンチ 高木(守道)監督も、僕がデッドボールで即交代したあと、何かの生肉を寮に届けてくださいました。湿布代わりに貼れば、腫れが収まるから、と。

パンチ 馬肉かな。地味でいつもムスッとしたイメージだけど、そういうところまで気を配る方だったんだね。

 プロ入り11年目の99年。開幕一軍スタートした山口さんだったが、ほどなく二軍落ちを命じられた。

 その後、ヒジの痛みに見舞われ、ボールを投げられないばかりか、バットも振れない状態まで悪化した。手術に踏み切るか、別の治療法を模索するか。再起に向け、試行錯誤していた山口さんのもとに、戦力外通告が届いた。

 現役への未練はあった。「どこか声を掛けてくれないかな」――そう思いながら1カ月、2カ月。声が掛からないまま、年が明けようとしていた。

中学時代の縁がUターン就職に


パンチ そこからどうしたの?

山口 求人雑誌などで仕事を探し始めました。ただもう29、30歳になっていたので、年齢的にも求人が少ない。しかも、自分に何ができるか分からなくて、結局何もしないまま翌年の5月になってしまいました。そこで僕のスカウト担当だった方が、会社を紹介してくださったんです。よくよく聞いたら、その会社の顧問が星野さんでした。

パンチ 星野監督は自分が取ってきた選手は必ず引退後も就職の面倒をみるって聞いたことがあるよ。伝説通りだったんだね。そこは何の会社だったの?

山口 トヨタ自動車の、いわば孫請けですね。トレーラーに新車を乗せて、販売店に運ぶ仕事です。そこで5年ほど働きました。

パンチ 今の会社に来るきっかけは?

山口 当時、アイダ設計の福利厚生施設としてスポーツジムがあったんです。僕は中学時代、体力トレーニングとリハビリを兼ねて実家の近くのスイミングスクールに通っていたんですが、そのスクールのマネジャーだった方がそこの顧問を務めていらしたんですよ。

パンチ あの逆三角形の分厚い胸板は、水泳のおかげだったんだ。中学生からそんなトレーニングする選手って、あまり聞いたことがないもん。しかし、縁って分からないものだね。

山口 で、「親会社もしっかりしているし、埼玉に帰ってくるきっかけになるからどうだ」と声を掛けていただきました。僕も、これまで野球界でやってきたトレーニングが生かせるし、こういうご縁があったのだからと、転職を決めました。ところがその後、スポーツジムが倒産してしまったんです。そこで今度はアイダ設計の社長にお声掛けいただいて、お世話になることになりました。

パンチ その社長さんは、野球界の人たちとお付き合いがあるの?

山口 いえ、野球界はないですね。スポーツが好きなんですよ、ウチの会社。特に社長はゴルフが好きで。タイプはちょっと違いますが、いろいろな意味で、星野さんに似たところがあると思います。統率力もあるし、「この社長についていこう」と社長を慕って入社する社員も多いです。何があっても、まず先頭に立って走ってくれますね。

まずは電話応対とPCに四苦八苦


パンチ アイダ設計さんは木造ハウスメーカーということだけど、入社して初めはどんな仕事に就いたの?

山口 最初の6年ぐらいは総務です。

パンチ 会社の顔的部署じゃないか。まず何から覚えていかなければならなかった?

山口 パソコンはもちろん、一番覚えなければいけないのは電話応対でしたね。総務は会社の代表電話があるので、いろいろな方から電話が掛かってくる。用件をしっかり聞いて、その場で答えるのか関係部署に振るのか。どこの部署に回せばいいのか。それ以前に、電話の転送の仕方が分からないところから始まりましたけど(笑)。

パンチ そのあと、今の社長室に来たの?

山口 販売促進部という、営業系の部署に半年ほど配属されました。仕事内容は、メディア関係の対応ですね。テレビ、ラジオCMに関するやりとりとか内容チェックとか。

パンチ 今の「社長室」では、どんな仕事が中心?

山口 「社長室」と名前は付いていますが、現場の発注などの中身の確認、受付や処理状況を見たり、クレーム対応に関して弁護士の先生と各部署の上のほうとのパイプ役を務めたり、といろいろです。

パンチ 仕事をしていて、「あ、あの山口さんですか?」と言われることは多い?

山口 多いですね。でも「中日の」より、埼玉だったので「大宮東の」と言われるほうが多いですが。

パンチ 高校野球雑誌には、必ず写真入りで出ていたもんね。ここでの仕事のやりがいはなんですか?

山口 住宅は「人生で一番大きな買い物」といいますよね。僕は直接現場に関わっているわけではありませんが、ただ住宅を売るのではなく、全工程を自社で行っているのがわが社のセールスポイントなんです。要は土地の仕入れから設計、木材のプレカットも自社工場を持っていて、建設部門、営業部門、売り渡した後のアフターサービス部門まで自社一貫。チラシを作る印刷工場まであるんですよ。そこはこの会社の魅力で、自分の仕事のやりがいにもつながっていると思います。

パンチ そんな会社、ないよね。

山口 ないですね。だから、例えば建設部門の監督として入ったけれども、現場に慣れなかったとか、職人さんとうまくいかなくて辞めざるを得ないなんてことがあるじゃないですか。でもウチの会社なら、そこで辞めなくても別の部署とかデスクワークとか、異動先がいくらでもある。どこで本来の自分の力を発揮できるか、これだけの部署があれば、どこか見つけることができるんです。

パンチ いい会社に入ったね。もう子どもさんも手が離れて、これから先については奥さんとどんな話をしているの? 次の夢とか、目標とか。

山口 (笑)。パンチさん、話します? そういうこと。

パンチ 俺は結構するほうだよ。まさか会話がなくなってるわけじゃないよね!?

山口 違いますよ(笑)。毎週休みの日は、飼い犬2匹を車に乗せて、夫婦でどこかぷらっと行ってはいますが……。

パンチ それは一番の休日だよ。じゃあここで、山口君と同じように高校からプロに飛び込んだ後輩たちに、何かアドバイスをお願いします。

山口 とりあえず、「一生懸命頑張れ」しかないですかね。そのときにしかできないこと――高卒なら19歳でしかできないこと、20歳でしかできないことってあると思うんです。そういう、「今しかできないこと」を目いっぱい、常に全力でやってほしいです。いつケガをして野球ができなくなるか分からないし、いつクビになるか分からない世界。「もう契約しません」と言われたとき、「ああ、あのときもっとやっておけば良かった」と後悔だけはしてほしくないと思います。

パンチ ところで山口君、中日の新監督に就任した立浪(和義)君と現役時代、一緒にやっているでしょう。立浪君の思い出とか、新監督に期待することはある?

山口 僕は入団した年の1月4日に、入寮したんです。そこで最初に声を掛けてもらった先輩が、1年先輩の立浪さんでした。「山口、時間ある? ちょっと付き合ってくれ」と言われて、室内練習場で一緒にランニングとキャッチボールをしました。立浪さんは1年目のシーズンが終わって新人王を獲り、とても輝いていたときですね。まさかこんな気軽に声を掛けてくれる人だとは思わなかった。それが一番印象に残っています。

パンチ 立浪君はさわやかな顔をしているけど、PL学園の厳しさの中で育ってきたから生真面目というか昭和っぽいというか……。今の選手とはどうなのかなと僕なんか思うけど、そこはどう?

山口 選手時代もそうですけど、貴公子然とした、きれいなイメージがありますよね。でも中身はどちらかというと、武士に近いと思います。僕は楽しみですよ。「ミスター・ドラゴンズ」と呼ばれるぐらいの人ですから、地元のファンもメディアも、これまで以上に注目する。名古屋の街も含めて、周りの盛り上がり方も違うでしょうから、選手もなおさらやる気になるはずです。

パンチの取材後記


 山口君と会う前は、「いやあ、パンチさん、あのときはこうでしたよね〜」「そうそう、こんなことがあったよね〜」なんて、思い出話に花が咲くような対談になるかと思っていました。ところがいざ話してみたら、僕が描いていた山口君のイメージとは全く正反対。一つひとつの言葉を確認しながら、丁寧に答えてくれる。いい意味で、「あれ?」とずっこけてしまいました。

 僕が見ていた30年近く前の山口君は、ガッツあふれるプレーで、イケイケの選手。そう話したら山口君、「あれは人より目立たなきゃって、半分アピールが入っていました」と笑っていましたね。でも取材で分かった彼の性格が、今の会社での仕事ぶりに表れているのだと思います。あのソフトな人当たりだと先輩はもちろん、後輩たちにも慕われているんだろうな。それにしても、いい会社に入りましたね。これからも頑張ってほしいと思います。

山口氏


●山口幸司(やまぐち・こうじ)
1970年4月29日生まれ、埼玉県出身。大宮東高では高校通算56本塁打のスラッガー。ドラフト3位指名で89年に中日に入団。背番号9(95年から00)の俊足巧打の右の外野手として活躍し、91年には84試合出場、翌92年には88試合出場を果たした。99年限りで現役引退。通算成績は417試合、打率.236(165安打)、15本塁打、56打点、15盗塁。現在は株式会社アイダ設計に勤務し、社長室部長。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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