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プロ野球はみだし録

“助っ人”監督の系譜。“東京ラストイヤー”の日本ハム・ヒルマン監督がエポック?【プロ野球はみだし録】

 

20世紀は“短期政権”ばかりだったが


03年、日本ハムの監督に就任したヒルマン


 長いプロ野球の歴史で、外国人の監督は少ない。2022年シーズンが始まった時点で最後のケースは2016年から20年までの5年間、DeNAを率いたアレックス・ラミレス監督となる。外国人の選手として初めてNPB通算2000安打を突破するなど選手としての実績も抜群だったが、21世紀に入って低迷が続いていたチームを3度クライマックスシリーズ進出に導くなど、監督としても手腕を発揮した。

 最後のシーズンは帰化したことで日本人の監督として指揮を執ったラミレス監督とは対照的に、古くは外国籍の監督といえばハワイ出身で日系人の選手が現役を引退して監督となるケースしかなく、その最後は中日を率いて1974年に巨人のV10を阻んだ与那嶺要監督となる。ラミレスと同様、選手としても巨人で首位打者3度などの実績を誇ったが、翌75年に広島でジョー・ルーツ監督が誕生。ルーツは選手としてNPBでプレーしておらず、まさに“助っ人”監督だった。判定をめぐるトラブルを発端に、わずか15試合で退任したものの、最終的に広島が初のリーグ優勝を飾ったことで、黄金時代の礎を築いた存在として評価されている。

 続いて南海(現在のソフトバンク)の選手、コーチとして一時代を築いたドン・ブレイザーが79年から80年シーズン途中まで阪神、81年から82年まで南海で監督を務めたが、結果を残せなかった。

 時は流れ、95年のロッテで、NPBの経験は皆無だったが、メジャーで監督を務めた経験があるボビー・バレンタイン監督が誕生、チームも2位に躍進したが、広岡達朗GMとの衝突もあって1年で退任。最終的にバレンタイン監督が20世紀で最後の“助っ人”監督となる。

 だが、2003年に日本ハムでトレイ・ヒルマン監督が誕生する。現在は日本ハムの本拠地は北海道だが、この03年は“東京”ラストイヤー。米マイナーの監督は長く経験していたものの、メジャーの指導者もNPBの経験も皆無というヒルマン監督の登場は斬新だったが、プロ野球の歴史においてもエポックだった。21世紀に入って急激に加速した“助っ人”監督の系譜について、詳しくは次回に。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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