日本ハム・大沢監督が辞任して
「優勝請負人」と言われた男も西武とは水が合わなかった
初期の西武には「現役晩年を迎えた他球団出身のスタープレーヤー」が多かったが、真打ちは
江夏豊だろう。
阪神9年、南海2年、
広島3年、
日本ハム3年。その時々の監督と対立したこともあった。逆に南海では
野村克也に、日本ハムでは
大沢啓二に懐いた。良くも悪くも、指揮官との信頼関係がそのチームにおける「居心地」に直結。上手に使われた広島と日本ハムでは「優勝請負人」と呼ばれ、MVPにもなった名ストッパーだった。
83年オフに大沢が日本ハムの監督を辞任し、フロント入り。あまりにも大物になった江夏を後任監督(
植村義信)は使いづらかろうと、大沢は江夏を放出することに。移籍先は
巨人も候補だったが、「巨人に取られるくらいなら」と西武が江夏を獲得した。
入団時、江夏は次のように語っている。
「僕個人としては、まず耐えるということを覚えるでしょうね(笑)。厳しい指導者(
広岡達朗監督)の下でやってみるのも、違った野球人生が形として出てくるんじゃないかと。田淵(幸一)とは関西では黄金バッテリーと言われ、脚光を浴びたわけですよ。そして俺が阪神を追い出され、3年後にまたアレが追い出された。その2人が最後の地・西武で一緒になる。言葉では言い表せないドラマ、人生を感じるっちゅうのか、面白いなと思いますわ。セーブ・ピッチャーじゃないけど、セーブ・キャッチャーとして俺の専属でやってほしい」
この移籍はフロント主導で、広岡の意思ではない。83年は
森繁和が日本記録(当時)の34セーブを挙げており、西武はリリーフ投手に困っていなかった。ましてや、広岡はベテラン選手を特別扱いせず、食生活にさえ口出しする「管理野球」。自由奔放、気ままに生きてきた江夏と合わないことは、火を見るより明らかだった。
江夏にとって不幸だったのは、最も江夏を必要としないチームに移籍したこと。コンディション不良や年齢的な衰えもあったにせよ、84年の江夏は20試合で1勝2敗8セーブ、防御率3.65と平凡な成績だった。お前しかいないとマウンドに送り出されることもなく、やり甲斐を感じなかったに違いない。唯一の救いは、阪神時代に黄金バッテリーを組んだ田淵と最後にまたチームメートになり、一緒に引退(退団)したことだ。
写真=BBM