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プロ野球回顧録

最後は球速140キロ止まり…苦しんだ5年目の野茂英雄、日本ラスト登板の西武戦【プロ野球回顧録】

 

勝利を逃した開幕戦の悪夢


思うようなピッチングができなかった94年の野茂


 プロ5年目は野茂英雄にとって散々なシーズンに終わった。前半戦で8勝を挙げたが、それから1勝も挙げられない。右肩を痛め、後半戦の登板が1試合では無理もなかった。「右肩関節包炎症」の診断でプロ初の二軍落ち。近鉄が球団史上初の13連勝で最下位から優勝争いに転じた8月、そこに野茂の姿はなかった。

 思えば4月9日、宿敵。西武との開幕戦(西武)が今季の野茂を象徴していたかもしれない。8回まで12奪三振のノーヒットピッチング。3対0のリードで迎えた9回、先頭打者の清原和博に二塁打を許したが、勝利は動かないように見えた。しかし、その後四球と失策が絡み、一死満塁となったところで降板。直後、抑えの赤堀元之伊東勤にまさかの逆転満塁サヨナラ弾を浴び、開幕を白星で飾ることはできなかった。「赤堀が打たれたら仕方がない」と野茂は2歳下のストッパーをかばったが、試合前に「今日は野茂と心中や」と語りながら降板させた鈴木啓示監督への不満はあっただろう。

 敗れはしたものの、8回までの投球は圧巻だった。「さすがは野茂」と誰もがうなったが、このシーズン、野茂が野茂らしさを見せたのは、この試合だけだったと言える。プロ5年目、1994年のトルネードは過去4年と明らかに何かが違っていた。

違和感から痛みに変わって離脱


 37年秋から40年までの巨人スタルヒン以来となる5年(5季)連続最多勝が懸かった94年、しかし春季キャンプに入る前から右肩に違和感を覚え、全力投球もままならず、調整は例年より大幅に遅れていた。はっきりとした原因は分からない。ただ、入団からの4年間はエースとしてフル回転。すべて200イニング以上を投げてきた。その“勤続疲労”が残っていることだけは容易に想像できた。

 それでも野茂は投げた。開幕に合わせ、前半戦はエースとして先発ローテーションを守り続ける。違和感を背負いながらのピッチング。6月から7月にかけて5試合連続勝利を飾った。だが、ついにその違和感が限界に達したのが、7月15日、GS神戸でのオリックス戦だった。このシーズン最短の2回で降板。「疲労とか違和感ではなく、痛みがあった」と沈痛な面持ちで語った。4日後のオールスターゲームにはファン投票2位の責任から登板を果たしたが、すでに右肩は悲鳴を上げていた。

自ら降板を申し出て


 後半戦、唯一の登板となったのは8月24日の西武戦(西武)だった。1カ月のリハビリ調整を経て復活を懸けたマウンド。優勝争いの真っただ中、野茂の完全復活が確信できれば逆転優勝への夢は大きくふくらむ。しかし球威不足は明らかだった。右肩痛が再発し、球速は140キロ止まり。「これ以上チームに迷惑を掛けるわけにはいかない」と3回1失点、57球で自ら降板を申し出た。

 再び二軍暮らし。そして野茂のシーズン中の復活が絶望的になったとき、近鉄も優勝争いから脱落していった。それは「今年こそ優勝にこだわりたい。タイトルよりも優勝が欲しい」と願っていた野茂にとって何よりも悔しいことだった。結局、この西武戦が日本最後の登板となった。

オフに行われた契約更改で話はまとまらなかった


 故障による二軍落ち、V逸。オフの契約更改では球団から大幅減俸を提示されることは間違いなかった。それに対し、野茂は4年間の蓄積疲労、来季への期待料を訴え、どこまでダウン額を抑えられるか――大方の予想は、しかし意外な展開、そして結末を迎える。

 野茂は複数年契約と代理人制度を希望。球団はこれを拒否すると、ついには翌年、いつまでも譲らない野茂に対して任意引退の処置を下す。それは野茂が望んでいた結末でもあった。任意引退を“勝ち取った”野茂は5年間の日本プロ野球生活に別れを告げ、以前からあこがれていたメジャーへ旅立っていった。

写真=BBM
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