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逆転野球人生

巨人三軍からわずか50万円の金銭トレード、新天地で覚醒して“西武キラー”と呼ばれた本原正治【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

桑田と同学年の同期入団


巨人では一軍登板を果たせなかった本原


 故障持ちの誰からも期待されていない三軍投手が、翌年には一軍のオールスター戦に出場する。

 かつて金銭トレードをきっかけに、そんな奇跡のような逆転野球人生を実現させた投手がいた。1990(平成2)年6月中旬、巨人からダイエーへ移籍した本原正治である。魚屋の息子として育ち、名門・広陵高では技巧派右腕として活躍。身長177センチ、体重67キロと線は細かったが、ムチのようにしなる右腕と上体の使い方は天性のものと評価され、85年ドラフト4位で巨人から指名される。そう、この年の1位桑田真澄と同学年の同期入団である。

 本原は3年目の88年春にオープン戦とはいえ一軍に帯同し、イースタンでは7勝を挙げ、防御率1点台を記録。順調に行けば中継ぎでチャンスがあるかと思われたが、間の悪いことに右肩を痛めてしまう。のちに「あれで、巨人の本原は終わったと思います。巨人の投手陣の中では、ちょっとした故障でも命取りですから」と振り返った痛恨のリタイアだ。

85年オフの巨人新入団選手会見。後列右から2人目が本原で前列右が桑田。西武から移籍の高橋直樹[前列左]、近鉄から移籍の有田修三[後列左から3人目]の顔も見える


 ただ、本原はある意味、達観した野球観の持ち主だった。会社や環境が悪い? いや怪我をしたオレが悪いさ。暗い恨み節なんて性にあわない。自他ともに認める明るく軽い性格で、中学時代には丸刈り頭がイヤで少年野球チームをやめたとこともある。もちろん練習嫌いで知られ、「なんだって、“しすぎ”はよくないんですよ」とか「スタミナがないから、夏場はいつもバテて合宿所で寝転がっていたんですよ」なんて平然と言ってのけた。スポ根全盛の昭和のプロ野球では、異端の“新人類”である。

 さらに右肩が癒えたと思ったら次は腰も痛めて、三軍でのリハビリ生活へ。そうこうするうちに現場復帰した藤田元司監督は、先発完投を徹底させたプロ野球史上屈指とも称される投手王国を作り上げる。90年シーズンは130試合制で、巨人のチーム完投数は驚異の70。一軍で投げた投手は年間でわずか10人しかいない。鹿取義隆角盈男といった実績のあるベテランリリーバーでさえも登板機会を求めて移籍する環境では、故障持ちの投手にチャンスはほとんどなかった。

 本原は、三軍でリハビリ生活を送りながら、軽い練習が終わると「今日は何して遊ぼうか」と考え、テレビで一軍の試合を見かけたら、「一軍が優勝したら、二軍もどっか旅行に連れてってもらえるから、いいや」と応援した。数年前は、友人から桑田のサインを頼まれても断っていた反骨の炎は消えかかっていたのだ。ドラフト4位入団の高卒5年目、冷静に見て、あと1年面倒を見てもらえるか? こりゃあもう厳しいかもしれんな……。当然、そんな考えが何度も頭をよぎる。

「本原クラスの選手なら交換なんていらんよ」


90年6月に山田[右]とともにダイエーへ移籍


 だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない―――。23歳の春、受験勉強からドロップアウトした浪人生のような生活を送り、やっと支配下選手登録され、打撃練習に投げ始めたと思った矢先の90年6月14日のことだ。トレード期限直前に福岡出身の山田武史とともにダイエーホークスへの移籍が決まる。金銭トレードである。なんと金額は、ふたりあわせて100万円。つまり、本原はわずか50万円の金銭と引き換えに新天地へ渡ったことになる。

 当時、記録的な負けっぷりで就任1年目の序盤から最下位に沈む田淵幸一監督だったが、若手を一軍に上げたくても二軍でも故障者が続出して満足に投げられる投手がいなかった。そこで球界屈指の投手力を誇る巨人の藤田元司監督に頭を下げて、本原のトレードを相談する。交換要員の希望を聞くと、「本原クラスの選手なら交換なんていらんよ」と藤田監督は言ったという。

 あまりの金銭の安さに“閉店間際のセール”、“巨人からタタキ売り”と揶揄する声もあったが、「あのまま巨人にいたら、よくてもファームの敗戦処理でしょうね。よく田淵さんが声をかけてくれましたよ」と本原はこの急な移籍話にノリ気だった。チーム合流から約1カ月半後の90年7月30日のロッテ戦で中継ぎデビュー。これが5年目にして一軍初登板でもあった。

 その3日後の西武戦にプロ初先発すると、黄金時代の西武打線相手に8回3失点の粘投で勝利投手に。相手の森祇晶監督を「プロで二度目の登板のピッチャーやろ。とにかく打てなさすぎた。こんなことではどうしようもない」と悔しがらせた。そこから順調に白星を重ねて、5勝中3勝が西武というレオキラーぶりが注目される。9月20日、西武の胴上げがかかった本拠地・平和台球場での一戦では、同級生の清原和博相手に二死満塁のフルカウントから、ど真ん中の135キロ直球で空振り三振に打ち取り、2失点のプロ初完投勝利を挙げた。

 この頃、本原は巨人でのリハビリ生活を「ボクなんか、三軍ができたおかげで今があるようなもんなんですから」と振り返り、こう笑うのだ。「ヒマで仕方がなかったので、新しい球を覚えようとフォークの握り方を研究していたんですよ」と。とにかく背番号32のその発言は自由奔放で、週べ90年9月17日号「松沼雅之のオト松見参!球Qトーク」のゲストに登場。松沼からは「真っすぐが結構いいんだよな。サイド気味に来るから、オーバースローの140キロ以上に相当する威力があるよ」と褒められ、本人はパ・リーグでのブレイクに、「“近鉄のユニフォーム、初めて近くで見た”とか、そんな感じですよ(笑)。実はダイエーも誰がレギュラーか、知らなかったんですもん(笑)」なんて本音トークを炸裂させている。

「パの打者、わからないですよ。清原はさすがに怖い感じはありますけど、ブライアントもトレーバーもラッキーなことに当たってないんで……。考えたってわからないんですもん。力がないんだから打たれたってしょうがないやって。そう思いますよ、ホントに。(この間まで二軍にいたんだって? と聞かれ)それどころか二軍でも投げてないないんですもん、ボクは」

移籍2年目も快進撃だったが……


ダイエー移籍1年目に5勝、2年目に8勝をマークした


 移籍1年目は10試合に先発登板すると5勝5敗、防御率4.48と上々の数字を残す。本人いわく「気合いの入った135キロの直球」と、「もし、巨人時代から投げてたら、タマ筋が一定して、ダメだったでしょうね。未完成だから、よかったんですよ」というダイエーで本格的に投げ始めたフォークボールが武器。さらにカーブやチェンジアップにも挑戦した。契約更改では年俸480万円から1320万円へ大幅アップ。首位西武に40ゲーム差も引き離され、球団ワーストの年間85敗を喫し最下位に終わったチームにおいて、数少ない希望が23歳本原の覚醒だった。

 移籍2年目の91年も快進撃は続き、暖かいハワイキャンプで腰の不安を気にせず、ハツラツとダッシュを繰り返した。主力投手の中でも一、二を争う仕上がりの早さを見せ、開幕2戦目の先発マウンドへ。前半戦8勝2敗の好成績を残し、補充選手として初のオールスター出場も果たす。巨人の三軍でくすぶっていた右腕が、わずか1年足らずで夢の舞台にたどり着いたわけだ。しかし、ここが本原のサクセスストーリーのピークだった。苦手な夏場に疲れが溜まり下半身に粘りがなくなり投球フォームが乱れ、球宴後にまったく勝てなくなるのだ。二ケタ到達は確実視されたが、終わってみれば8勝9敗、防御率4.78。自身初の規定投球回には達したが、後半戦は1勝もできなかった。

 いつの時代も夢の時間の終わりは、あっけないものだ。翌92年はオリックスのルーキー鈴木一朗(イチロー)のプロ初打席の相手も務めたが2勝と低迷。93年オフには広島へ金銭トレードされるも、再び輝きを取り戻すことはなかった。なお、本原は90年から91年にかけて西武戦5連勝を記録したが、巨人は89年から93年まで日本シリーズの4連敗を含む対西武14連敗を喫している。

 皮肉なことに、当時の巨人がなによりも欲した“レオキラー”は、自チームの三軍に埋もれていたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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