初めてタイトルを意識したシーズン
プロ11年目、83年シーズンの真弓
阪神ファンは驚いた。1978年のオフ、突然、明るみに出たトレード。阪神から
田淵幸一、
古沢憲司のビッグネーム2人。そしてクラウンライターから
竹之内雅史、
若菜嘉晴、
真弓明信、
竹田和史の4人。2対4の大型トレードが成立した。
新監督に就任が決まっていた
ドン・ブレイザーの改革。阪神がチェンジするためには田淵を放出し、若いスピードのある選手を獲得する。それが条件だった。さらに言えば、ブレイザーが最も獲得を熱望したのが、南海のコーチ時代から見ていた真弓だった。仮に真弓が取れなかったら、この話は幻に終わっていたかもしれない。それほど真弓の潜在能力にほれ込んでいた。
79年にタイガースのユニフォームを着てから5年目の83年。真弓は着実に成長し、バットマンとして最大のチャンスを迎えた。「首位打者」。真弓が初めて個人タイトルを意識したシーズンだった。
「あの年、夏前かな、足を痛めて。130試合制で112試合しか出場していないんですよね」
開幕当初、恐怖の七番とも言われたが、5月に肉離れによる戦線離脱があった。それでも6月に故障から復帰後、打率を伸ばした。この年はショートから外野、一塁に回り、さらに
岡田彰布のケガでセカンドと守備位置はコロコロ変わったが、不満を言うこともなく、ひたむきにプレーを続けた。
終盤にタイトルを争った相手は
ヤクルト・
若松勉。常に首位打者を争う安打製造機だ。
安藤統男監督からは「休んで打率を調整していいぞ」と言われたが、真弓は敢然と若松に挑戦した。
中西太の門下生同士という不思議な縁を感じる争い。相手の動向をうかがいながら、真弓は打率をキープする。下にいた若松がノーヒットに終われば、真弓に余裕が出る。試合に出れば固め打ち。終盤の攻防で真弓の初タイトルは確定した。
緊張感の中で戦い抜いたことが財産に
打率.353。右打者として誇れる高打率だ。しかし真弓はこう言った。
「夢にまで見た、という表現はよく使われるけど、僕の場合、夢にも見られなかった。信じられません。タイトルは確かにうれしかったです。でもそれ以上にプラスだったのは、ああいう争いの中で負けずに打てた精神力。あの緊張感、経験はその後に大いに役立ちました」
真っ向勝負を挑んだからこそ、言えることだった。真弓は、打率を下げないように出場を“調整”することは一切しなかった。実績のある打者ならまだしも、プロで10年やってきて一度も3割を打ったことのない自分が“小細工”などしたら、陰口をたたかれるのがオチだから、というのがその理由だ。タイトルを取るなら、周囲も、そして自分も納得できる形で手にしたい。その意地が、首位打者獲得の原動力となった。
そして初タイトルの経験と精神面の強化は2年後、85年の優勝に結びつくのだった。
「85年のシーズンもプレッシャーを感じることなく戦えた。それは83年のタイトル争いの経験が大きく影響しています」
タイトル獲得の重みを真弓は感じていた。
写真=BBM