“第3の外国人”からのブレーク
フォロースルーの大きい打撃が特徴だった呂
ヤクルトの
ボブ・ホーナーがシーズン途中のデビューで、最初の4試合だけで6本塁打を放って“旋風”を巻き起こしたのが1987年。ホーナーは1年で退団したが、続くときは続くものなのか、翌88年も新たな助っ人によって“旋風”が巻き起こった。
主役は
巨人の
呂明賜。現役バリバリのメジャー・リーガーだったホーナーとは対照的に、呂は当時の外国人枠で制限されていた“第3の外国人”で、好打者の
ウォーレン・クロマティ、好投手の
ビル・ガリクソンの存在を超えられず、巨人の二軍でくすぶっていたのだ。背番号は「97」。体重が由来というが、期待を背負って与えられたとは言い難い。だが、クロマティが死球禍で骨折して、離脱。これで呂に出番が回ってきたのだ。
来日する前から「夢は日本のプロ野球で力を試すこと。あこがれは王(貞治)さんのいる巨人」と語っていた呂は台湾の出身。このとき巨人を率いていた王監督は台湾で英雄視されていた。呂は6月14日のヤクルト戦(神宮)でデビュー。初打席で左翼の上段にアーチを架けて、「全打席ホームランを狙う。尊敬する王監督のためにガンガン打ちまくりたい」と声を弾ませた。そして9試合で7発。ホーナーの勢いには届かなかったとはいえ、人気の巨人ということもあり、ホーナーに勝るとも劣らないフィーバーを巻き起こした。
いつしか“アジアの大砲”の異名も定着。終盤は内角攻めに苦しめられたが、79試合の出場で16本塁打を残し、さらなる活躍が期待されてオフには背番号も「12」に変更された。
フォローの大きな独特のフォームが持ち味の呂だが、オフに取り組んだフォーム改造で運命が暗転する。その翌89年のオープン戦では本塁打ゼロ。4月12日の
阪神戦(甲子園)でシーズン初本塁打を放って「昔のフォームで打てたみたい。少しずつ思い出して頑張りたい」と語るも、ガリクソンが故障から復帰、クロマティも完全に復活して打率4割をうかがう絶好調という状態で、ふたたび呂は“第3の外国人”が定位置となってしまった。その後は二軍では大活躍だったものの一軍では結果を残せず。91年オフに退団して、台湾の球界へ復帰している。
文=犬企画マンホール 写真=BBM