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逆転野球人生

黄金時代の西武から巨人へ移籍で一変したデーブ大久保の評価 異例の“2000万円ボーナス”も手に…【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

“豊田泰光二世”と称されたスラッガー


92年途中、西武から巨人へ移籍して大活躍。週ベの表紙撮影も行った


「はつみつレモンジュースは部屋に常備してます!」

 週べ87年11月16日号で当時プロ3年目の大久保博元は、読者から寮の自室冷蔵庫に常備しているものを質問され、そう答えている。ちなみに隣ページの「レターキャッチボール」コーナーでは、14歳女性が「巨人中畑さんに関するものを譲ってください」とか、15歳女性が「日本ハムの西崎さんと島田誠さん大好きな私ですっ!」とナチュラルに文通相手を募集するほど当時のプロ野球に対する世間的認知度は高かった。

84年ドラフトで西武から1位指名され、プロの世界に飛び込んだ


 さて、67年生まれの大久保は水戸商時代に高校通算52ホーマーのうち21本を木製バットで放ち、西武から84年ドラフト1位で指名された強打の大型捕手である。“豊田泰光二世”と称されたスラッガーは、身長181センチで体重は90キロ近くあり、1年目から二軍で四番起用をされるほど球団からは期待される。だが、当時のチームには伊東勤という正捕手がいた。年齢もまだ20代中盤の若さだ。ならばと、背番号45はその打力を生かすため、サードやファーストで起用されながらチャンスを待った。すると19歳になりたてのある日、大久保は根本陸夫管理部長から、こう告げられるのだ。

「おい大久保、アメリカへ行ってこいよ」

 米1Aのサンノゼ・ビーズへの野球留学だ。当時の西武は秋山幸二工藤公康を同チームへ送り込み、黄金時代のベースを築こうとしていた。当然、大久保も期待されていたわけだが、本人は渡米直後にサードでのプレーを希望。だが、元メジャーリーガーの大物選手が三塁を守っていたため、出場機会を求めて現地では捕手として試合に出続けることになる。10時間近いバス移動に土・日はダブルヘッダーが当たり前。結果を出せなければすぐクビを切られるアメリカ人選手からは、「なぜ、お前がゲームに出られるんだ?」と冷たい目で見られることもあった。そんな環境で、142試合中100試合近くマスクをかぶり、キャッチャーとして勝負する覚悟と“デーブ”という愛称を手土産に帰国する。

目に見えて減っていったチャンス


87年のジュニアオールスターではMVPを獲得した


 この86年は1学年下のルーキー清原和博が打率.304、31本塁打という凄まじい活躍をして、一塁のポジションに定着。同じドラ1として比較する声もあったが、大久保は3年目の87年に初の開幕一軍入りを果たし、前半戦は代打中心の起用ながら打率.278。2年ぶりに出場したジュニアオールスターでは、三遊間を抜く勝ち越しタイムリーを放ちMVPにも選ばれた。さあこれからという状況だったが、森祇晶監督からは強気一辺倒のリード面を酷評され、太り気味の体型も度々叱責されることになる。喉が渇いても好物のコーラやスポーツドリンクではなく、氷を舐めて減量に励んだが、89年にイースタン新記録の24本塁打を放ってもチャンスは目に見えて減っていった。

 85年からリーグV4、さらに90年からも3年連続日本一。捕手伊東、一塁清原、三塁石毛、DHにデストラーデがいる黄金時代の西武では、代打くらいしか働き場所はない。7年目の91年はわずか5試合の出場で無安打に終わり、もはや捕手としても打者としても構想外に近かった。当然、大久保は信頼するフロントの根本にトレードを直訴する。だが、堤義明オーナーは元ドラ1キャッチャーの放出に乗り気ではなかった。当時の心境をのちに週べインタビューで大久保はこう回想している。

「正直にいって、西武にいた時、清原が、打てないとかいって悩んでるのをみて、うらやましいと思ってましたよ。ボクの場合は、打てなくて悩んだことがないでしょう。ちょっと打てなかったらファームに落とされて……」

 六本木の「エルアミーゴ」で先輩の御馳走になるたび、いつか自分のおカネで来られるようになろうと心に誓う。いわば飼い殺しに近い状況だったが、二軍暮らしが続いた8年目の92年5月、根本から電話が入る。移籍が決まりそうだという。しかも、相手は子どもの頃から大ファンだった巨人だ。中尾孝義との交換トレードによる入団発表が5月8日、大久保は翌9日には一軍練習に合流。なお、藤田巨人は最下位に転落するどん底の状況だった。いわば、ベンチの雰囲気を変える起爆剤の役割を期待されたのである。まっさらな背番号22は12日のヤクルト戦で即ベンチ入りをすると、4回に代打で起用され、そのままマスクをかぶり先発の斎藤雅樹を好リードして完投勝利に導いた。

アーチを放った11試合は全勝の“デーブ神話”


 翌13日には先発出場。17日の広島戦では、西武時代はわずか通算6本塁打の25歳が、早くも移籍後初アーチとなる逆転の1号3ランを放ってみせる。よし打撃は使える。課題は守備……のはずだった。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない――。西武時代はアバウトすぎると酷評されたリードが、新天地では投手を引っ張る思い切った大胆な攻めと高く評価されたのだ。職場が変われば、評価の基準も変わる。太りすぎで動けない捕手だったのが、的が大きくて投げやすいと褒められる。しかも、少し前まで常に体重計を気にしていたのが、藤田元司監督からは「うちの選手もみんな太ってるから気にしないでやってくれ。食事のときも、おかわりしろよ」と声をかけられ気がラクになった。ボスは宿舎でシェフに向かって、「デーブにステーキを焼いてくれ」と頼んでくれたこともあったという。新しい環境で、新しい上司と出会い、大久保はこれまでの鬱憤を晴らすかのように打ちまくった。

巨人軍の最高経営会議からはシーズン中に異例の2000万円のボーナスが贈られた


 6月の月間MVPを獲得するなど、前半戦40試合で打率.300、12本塁打、38打点。アーチを放った11試合は全勝という“デーブ神話”と、こちらも緊急獲得のロイド・モスビーの“モスビー効果”で勢いに乗ったチームは6月6日から10連勝。そこから約1カ月を21勝2敗と破竹の快進撃を続け、一時は首位に立つ。西武時代、一軍ナイターの時間はファンに気付かれないよう外出を控えていた二軍選手が、移籍後2カ月の大活躍により手にした、逆転野球人生。週べでは中畑清との新旧“絶好調男”対談で華々しく表紙を飾り、監督推薦で初のオールスター出場も果たし、ついには巨人軍の最高経営会議からシーズン中に異例のボーナス2000万円が贈られるほどだった。

週ベの新春スペシャル企画では夢である居酒屋の店主に扮した


 だが、デーブバブルともいえる絶頂期は長くは続かない。実は球宴前の広島戦で右手首に死球を受け、満足に送球もスイングもできない状態だったと、のちに『週刊読売』の自身の連載コラムで明かしている。後半戦も常に投手に対して向かっていく打撃スタイルの大久保に対して、各球団の激しい内角攻めが定着する。結局、後半に急失速して打率.277、15本塁打、43打点。92年ペナントは野村ヤクルトの初Vで幕を閉じた。それでも年俸1150万円から大幅増の2640万円を手にして、12月はイベントに引っ張りだこのバラ色のオフに。ちなみに週べのプロ野球選手の夢をグラビア撮影する初春スペシャル企画では、居酒屋店主のオヤジに扮し、「屋号はやっぱり、居酒屋・でーぶかな」なんつってやたらとリアルな未来の夢を語っている。

28歳の若さで引退


93年5月27日のヤクルト戦で高津から死球を受けて左手首を骨折


 長嶋茂雄監督が復帰した93年序盤は、横浜のブラッグスと本塁打王争いをするスタートダッシュを見せるが、5月27日のヤクルト戦で高津臣吾から左手首に死球を受けて骨折。珍しく怒りを露にする長嶋監督に、試合後の野村克也監督も「向こうも古田に何回も来てるやないか。大久保に当たったくらいでガタガタ言うな!」なんて一触即発状態に。遺恨のGS決戦はさらにヒートアップしていくことになる。3カ月以上の長期離脱から復帰後の大久保は、四番起用されるほどミスターからの評価は高く、秋季キャンプでは打撃を生かそうと一塁守備練習に励む。

 しかし、だ。直後に「やはりキャッチャーでいこう」と首脳陣から告げられ、翌日のスポーツ新聞各紙では「FA落合、巨人入りか」の見出しが躍った。94年は6月4日の横浜戦でサヨナラアーチを放ち、一塁ベース上で師匠の中畑コーチと歓喜の抱擁。9月17日の阪神戦でも代打サヨナラ弾をかっ飛ばすと、涙を流しながらダイヤモンドを一周した。この年9本中6本が初球打ちという攻めのスタイルと、感情を露にするプレースタイルは巨人では異端の存在だったが、長嶋監督は背番号22を重宝した。

 秋の日本シリーズでは古巣・西武と対戦。昔は登録メンバーに入っていても試合には出られず、ライオンズベンチから応援だけしていた苦い記憶が甦る。もうあの頃のオレとは違う。第4戦、5対4の1点ビハインドで迎えた9回表ツーアウトランナーなしの場面で登場した代打・大久保は、杉山賢人が投じた4球目のほとんど顔の高さの146キロ直球を捉え、左翼席へ劇的な同点アーチを叩き込んだ。地鳴りのような拍手と歓声に包まれる西武球場。相手ベンチには呆然とする森監督の姿もあった。テレビ視聴率40パーセント超えの日本中が注目する大舞台で、これ以上ない一発。同時に大久保の中の反骨の炎もこの瞬間に燃え尽きたのかもしれない。

94年の日本シリーズで西武を破って日本一になり銀座でパレードを行った


 日本一になった翌95年は開幕直後、空振りした際に足首を取られ故障離脱。コーチとの衝突もある中、二軍戦のホームクロスプレーでは古傷のヒザを痛めた。スポーツ報知で「現役引退」が報じられ、戸惑う反面、どこかホッとしている自分もいた。天国と地獄を経験できた11年のプロ生活。ここらが潮時かもしれないな。ヤクルトの野村監督からのラブコールもあったが、大久保博元は28歳の若さでユニフォームを脱いだ。

 野球人生で最も輝いた92年夏、週べの中畑清との対談で、デーブは喧噪の日々の中のこんな本音を口にしている。

「実は、まだ自分が活躍しているのが信じられなくて、よく女房と話をするんです。“いいよな、いい夢を見たよな”って。まだ次の日のことなんて考えられない。一夜にして、またファームに落ちちゃうんじゃないかっていう……」

 確かにあのトレードが夢をかなえるきっかけになった。所沢でくすぶっていた男は、東京へやってきて、見事に“ジャイアンツ・ドリーム”を掴んでみせたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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