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逆転野球人生

野村ヤクルトから門前払いの古溝克之が、リストラ同然のトレード先・阪神で復活できた理由とは?【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

“逃げの寅さん”と揶揄された若者


阪神時代の古溝


「“人事異動”で変身した男」

 この見出しは、雑誌『ベンチャークラブ』1994年10月号に掲載された古溝克之の記事である。中堅・中小企業家を応援するネットワーク情報誌で、「昨年暮、オリックスをお払い箱同然で阪神に移籍してきた」古溝を、「遅れてやってきたシンデレラボーイ」と称賛している。31歳左腕の復活はそれだけ予想外で劇的なものだった。

 古溝は福島商高時代に県下屈指の快速サウスポーとして春夏連続で甲子園に出場。社会人の専売東北(現JT)を経て、84年ドラフトで阪急ブレーブスから2位指名を受ける。140キロ超えの直球にキレのいいカーブが武器。即戦力の呼び声高かったが、1年目は未勝利に終わり、2年目が3勝、3年目は5勝とローテの谷間と中継ぎの便利屋的な起用をされる日々。グリコ森永事件の指名手配犯「キツネ目の男」の似顔絵にそっくりで警察から事情聴取されたらしいという都市伝説がスポーツ紙を賑わせ……という定番ネタは置いといて、映画『男はつらいよ』でフーテンの寅を演じた渥美清に顔が似ていることから、あだ名は「トラ」。実家は果樹園を経営しており、本人も大らかなのんびりとした性格だ。近鉄戦でオグリビーに頭部死球をぶつけ、怒った助っ人がマウンドに突進してくると一目散に逃げ出し、センター方向へダッシュエスケープ。これには阪急の上田利治監督も「あの弱気の性格はどないかならんものか」と呆れた。

“逃げの寅さん”と揶揄された若者の転機は3年目を終えた87年オフだ。結婚をして寮を出ると、宝塚市に家賃12万8200円のマンションを借りた。新生活はなにかと物入りで自由になる小遣いはほとんどなかった。年俸880万円の左腕は給料を上げるためには練習しかないと、中沢伸二バッテリーコーチにマンツーマン指導を頼み込むのだ。当時の週べによると、毎日5時間、西宮第二球場での2人っきりの練習は大晦日まで続き、正月明けも4日から始動した。「トラがやっと本気になってくれた」と首脳陣が喜ぶ中、スライダーの習得やフォーム改造に励む古溝の姿があった。

「ウチの調査じゃ、もう使いものにならんという話だ」


阪急時代の古溝のピッチング


 そうして臨んだ4年目の88年は飛躍のシーズンとなる。初登板でチームの開幕5連敗を止める完投勝ち、二度目の登板も6連敗で阻止する連続完投勝利だ。28試合に投げ10勝10敗、防御率4.52で25歳にして初の二ケタに到達。年間9完投のタフネスぶりに黄金時代の西武を率いる森祇晶監督も「古溝が一番イヤな相手」と認めるほどだった。しかし、前半戦を最下位ターンの阪急は4位に終わり、10月19日にはオリエント・リース(現オリックス)への球団譲渡が発表された。

 オリックス時代の古溝は、仲の良い星野伸之と先発ローテの中心を期待されたが低迷する。89年はまさかの0勝、90年は1勝、91年、92年は再び未勝利……。左肩や左ヒジを痛め、変化球のキレがなくなり制球を乱すと、弱気の虫が顔を出す。ノミの心臓、勝負どころでの弱さを指摘され、土井正三監督の信頼を失った。93年はウエスタン・リーグでどれだけ投げても一軍から声が掛からない。二軍成績は21試合で6勝6敗1セーブ。消化試合に近い10月11日の近鉄戦でようやく一軍昇格すると、初先発して勝利投手になるも、すでに構想外でトレード要員の顔見せ登板のようなものだった。

 過去に二ケタ勝利経験があれど、すでに30歳だ。かつて古溝の結婚式の仲人を務めた元・監督の上田は教え子を心配して、左腕不足に悩むヤクルト野村克也監督に連絡を取る。しかし、ノムさんの返事は「ウチの調査じゃ、もう使いものにならんという話だ」とつれないものだった。ならばオリックスの仰木新体制で尊敬する山田久志投手コーチとプレーしたい気持ちもあったが、その山田からは「残っても一軍で100パーセントやれる保証はないぞ」なんて告げられてしまう。結局、関西の阪神タイガースとの間で渡辺伸彦との交換トレードがまとまるが、「ワンポイントにでも使えたら儲けもの」という移籍に注目するマスコミは皆無に近かった。

ブルペンの危機に中村監督が決断


96年春季キャンプで舩木聖士[右]とツーショット


 だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない―――。縦ジマのユニフォームを着たプロ10年目の古溝は、94年シーズンが開幕すると中継ぎや敗戦処理で黙々と投げ続ける。皮肉にもここ数年、満足に使われなかったことで肩やヒジの調子は良かった。一軍での登板を重ねる内に今までは変化球に逃げてきたが、自分の生命線は直球だと思い出した。地獄を見た30歳の転職先としては、投げる場所があるだけラッキーってもんだ。好物の炭酸飲料を毎日1リットル飲み干し、ロッカーではパンツ一丁でウロウロするフーテンの寅さん。そうこうするうちにダブルストッパーの郭李建夫田村勤が不調や故障で離脱。そのブルペンの危機に中村勝広監督は、「思った以上に球に力があるな。あれなら行ける」と“守護神・古溝”を決断するのである。

 大役を託された古溝はこれまでの鬱憤を晴らすかのように投げまくった。オリックス時代とは違って満員の甲子園のファンが自分に拍手を送ってくれる。「あんな声援を受けたら、疲れてたって、やらなきゃ、という気になるよ」とやりがいを語る週ベ94年9月5日号では、「選手生命の瀬戸際から鮮やかに甦った猛虎の新守護神」特集が組まれている。長い間、弱気の虫と揶揄されてきた三十路サウスポーは、華麗なる転身にも冷静だった。

「それはある種の、性格だからね。オレがオレが、というタイプじゃ決してない。気が小さい方なんだ。だから抑えには向いてない、と今だって自分で思っている」

 7月24日のヤクルト戦では、9回裏から延長14回までなんと6イニングも投げてチームを勝利に導き、7月は4勝1敗5セーブと獅子奮迅の活躍で自身初の月間MVPも受賞。「これほどやってくれるとは思わなかった」と三好球団社長をも驚かせる。古巣からは構想外を突きつけられ、野村再生工場からは門前払いを食らった男は、13連続セーブポイントの快進撃で、この年リーグ最多の61試合に投げてみせた。

阪神では主にリリーフとして活躍した


 7勝2敗18セーブ、防御率2.20。経済誌で“リストラからの復活劇”と取り上げられ、セ・リーグ会長特別賞にも選出。まさに起死回生の逆転野球人生だ。転職先で「イチから頑張ります」と口にするのは簡単だが、重ねた年齢と古巣での実績はときに足枷になる。プライドが邪魔をするのだ。しかし、古溝は決して過去を引きずらなかった。契約更改で3倍増近い年俸3800万円の大幅昇給を勝ち取り迎えた95年は、19セーブを挙げ、初のオールスターにも監督推薦で出場。第1戦と2戦に連続登板したのは、両リーグの参加投手で虎の背番号50ただひとりだった。

 96年からは先発再挑戦したが、当時暗黒期のチーム事情もあり便利屋のような起用が続き98年限りで阪神を退団。最後は恩師の上田が監督を務めていた日本ハムで現役生活を終えた。不満ひとつ漏らさず、どんな場面でも投げ続けることで己の人生を変えた94年夏、その狂熱の中で古溝克之は、週べにこんなコメントを残している。

「疲れたといって、休みをくれるわけでもなし。とにかく、自分にとって、使ってもらっているうちが華なんだ」

文=中溝康隆 写真=BBM
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