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ライオンズ「チームスタッフ物語」2022

川崎宗則によって変わった人生。スポーツ医療進化への貢献も誓う門田大祐リハビリトレーナー/ライオンズ「チームスタッフ物語」2022【Vol.04】

 

グラウンドで躍動する選手たちだけではなく、陰で働く存在の力がなければペナントを勝ち抜くことはできない。プライドを持って職務を全うするチームスタッフ。ライオンズを支える各部門のプロフェッショナルを順次、紹介していく連載、今回はヘッドリハビリトレーナー兼企画室を務める門田大祐氏を紹介しよう。

英語を話せなかったが渡米


西武でヘッドリハビリトレーナー兼企画室を務める門田大祐氏[写真=球団提供]


 小学3年生から野球を始め大学までプレーを続けた門田大祐氏だが、大学1年時に肩を傷めてしまう。外野手だったが痛みがなくなっても元のように投げられない。プロを目指していただけに、心が完全に折れて、どん底に突き落とされてしまった。体全体が絶望感に覆われているとき、頭に浮かんだのが「自分と同じ思いをする選手をなくしたい」という考えだ。理学療法士になる――。新たな目標を見つけた門田氏は大学1年7月で中退、翌2010年から専門学校でリハビリに関して学ぶことになった。

「2013年に専門学校を卒業して、2年間大阪の病院に勤務しました。理学療法士になればスポーツの世界で働けると思っていたんですけど、理学療法士は毎年日本で1万人ずつくらい増えていく。そういう状況でプロスポーツの中に入るのは難しいと感じて、周りの人がやっていないことをやろうと思い立ちました。あと、大学のときにメジャー・リーグで活動経験があるトレーナーと接した影響も大きかったんですが、アメリカに行こう、と。16年にエンポリア州立大に入学しました。

 なんとかなるだろうと、まったく英語を話せない状況でアメリカに渡ったのですが苦労しましたね。でも、そこで人生を変える出来事がありました。渡米1年目の夏休み、ちょうどムネさん(川崎宗則)がカブスの3A、アイオワ・カブスでプレーしていたんです。僕はカンザス州に住んでいて車で5時間くらいかかるんですけど、試合を見に行ったら会えるかもと思って。でも、デーゲームだと勘違いして、ナイターだったんです。まだ試合がやっていなかったので球場の周りを散歩していたら、たまたまドアから選手が出てきて。思わずその選手に「日本人で、川崎選手に会いに来た」と訴えたら、「じゃあ中に入れよ」と言ってくれたんです。

 それで球団の方が連絡して、ムネさんが僕の目の前にやってきたんです。でも、初対面なので「お前誰だ!」って話じゃないですか。なので、「日本で理学療法士の資格を取って、今はアメリカの大学でトレーナーの勉強をしています」と自分の経歴を紹介したら、ムネさんが「分かった。じゃあ、今日から俺のトレーナーになれ」って。映画みたいな話ですよね。それがきっかけでムネさんのトレーナーをさせていただくことになりました。週末とか、空いた時間を使ってムネさんの下へ行って。実際に体を診させてもらいました。この年、カブスは世界一になりました。マイナー最終戦でムネさんがメジャーに上がったんですけど、僕も一緒に行きました。本当に普通では考えられない話です。
 
 ムネさんは面識がない人とでも親友のようにコミュニケーションが取れますし、本当に常に変わらない。非常に真っすぐな方でもありますし、人生でそのような人に出会ったことがありません。率直にすごいなという印象ですね」

2人のベテラン、新人と接して


 19年にアメリカの大学を卒業し、さらに大学院でスポーツ障害予防の勉強をしたいと考えていたが、希望どおりの進路が叶わず一旦帰国。日本で経験を積んでから再渡米を目論んでいたが、同年夏にライオンズがトレーナーの募集をしていると大阪の病院時代の先輩である阪神の馬場皇一郎トレーナーから聞いた。同時期に中学時代に所属していた熊本東リトルシニアでトレーナー活動をしており、村上宗隆選手の父、公弥氏からの後押しもあり、それがきっかけで応募し、見事に合格を手にした。

「ライオンズでは初めからリハビリトレーナーを務めています。1年目は(高橋朋己)朋己さんをずっと診させてもらいました。左肩のリハビリをずっとされていましたが、復帰させたい気持ちは強かったです。あとは松坂(松坂大輔)さんですね。昨年の4月くらいには投げられる状態にはなったんですが……。どうしてもお2人には一軍マウンドに上がってもらいたい気持ちがずっとあったので、それができなかったことがすごく心残りでした。

 お2人ともすごく熱心でしたね。朋己さんは朝早く、僕が来る前に球場に来て体を動かしていることもありました。松坂さんもいろいろ勉強されていて、ちょっとでもいいなと思ったら「こういうのをやってみたらどうかな」と動画などを僕に送ってくれたり。本当に最後まであきらめることなくリハビリに取り組んでいました。

 昨年はルーキーだったワカ(若林楽人)も5月30日に左ヒザ前十字靱帯損傷の大ケガを負って、リハビリ組に回ってきました。翌日から接することになったんですが、それまでまったく話したことがなかったんです。やはり、まずは何を考えているのかつかむことから始めました。信頼関係を築きたいですからね。それと開幕から盗塁も重ねて好調な中での大ケガだっただったので、本人の心を折ってはダメだ、と。大学時代の僕と同じ思いをさせるのは絶対に嫌でした。田中(田中秀典)リハビリトレーナーと協力して、少しでもできることをやっていこうという感じでしたね。

 ワカは1カ月くらい入院して、7月に寮に帰って来ました。そのころは松葉杖をついて歩くリハビリでふさぎ込んでいるような感じでしたけど、8月終わりくらいにジョギングが始まって、そこから会話を交わせるようになっていきましたね。代わり映えしないトレーニングだと飽きてしまうと思ったので、毎日違う動きをさせたり、バスケットボールが好きなのでバスケの動画を見せて、「こういうトレーニングを取り入れよう」と提案したりしましたね。

左ヒザ前十字靱帯損傷の大ケガから5月31日の阪神戦で一軍復帰した若林[写真=BBM]


 ワカと接して感じたのは自分を客観的に見られる選手だということです。「今ヒザがこういう状態だから、もっとこれができる」と自分から言ってきましたから。あとは食事面でも栄養士の方にサポートしていただいて、意識もだいぶ変わったと思います。

 今年一軍復帰した日(5月31日)の夜には「お世話になりました」と連絡がありました。しかし、約1カ月後(6月27日)に抹消。やっぱり、一軍復帰しただけではよしとできません。プレーで目指しているのはもっと上です。これからワカの野球人生は長く続いていきます。5年後にケガをしたら僕の責任だと思うので、しっかりと接していきたいです」

とにかく試行錯誤する日々


選手に治療を行う門田氏[写真=球団提供]


 リハビリトレーナーの仕事で重要なことは「常に冷静でいること」だという。ケガを負ったネガティブな感情を持った選手と接することが多い。それに同調することも大切だが、流されてはいけない。ケガの状況を判断する重要な役割を担うため、自分の考えをブラさないことを貫いている。

「ただ、常に試行錯誤しています。毎日、こういうトレーニングをすれば良かったのではとか、リハビリスケジュールを組み直せば良かったのでは、と。たとえ選手が復帰できても、時間が経って振り返ってみると、もう少しこうすれば早く復帰できたのではないかという考えが頭に浮かんできます。

 というのも、最初に就職した大阪の病院はかなりリハビリに力を入れていたんです。2年間、基礎をみっちりたたき込んでいただいたんですが、上司の方はみんなレベルが高くて、極端に言ったら歩けない人を歩けるようにする。そういう方たちばかりでした。先輩だった馬場トレーナーを含め、そういう方たちが僕の仕事を見たらどう思うのか。まだまだ勉強していかなければいけません。

 トレーナーを目指している方には周りと違うことをするのが必要だと伝えたいです。日本で勉強して、資格を取って、仕事を始めてというのが通常ですが、それだと周りと同じ。やはり、自分の強みになることを身につけることが大切だと思います。僕の場合は日本で理学療法の基礎を学んで、かつアメリカのシステマチックな現場で働かせていただいた。その経験は自分の強みだと思っています。あとはムネさんの言葉ですが「今の環境がイヤでも、自分で環境を作っていく」。自分の足を使って動くことも重要でしょう。

 目標は極論を言えば誰が来ても治せるリハビリトレーナー。ドクターではないので無理なことですが、それが理想です。あとは日本のスポーツ医療の進化に少しでも貢献したい。最先端を行っているアメリカの技術などを日本に取り入れて、発信していきたいと思っています。

 もちろん最優先するのはチームの優勝のために、ケガ人を一日でも早く一軍舞台に戻すお手伝いをしっかりとやっていきたいです」

文=小林光男
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