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逆転野球人生

西武5年間でわずか8勝。“未完の大器”柴田保光が日本ハムでノーノーを達成してエース級の活躍ができた理由【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

社会人時代は公式戦未勝利


日本ハム時代の柴田


 その男の名前がドラフト会議で読み上げられると、プレスルームには軽いざわめきが起こったという。

 なにせ社会人時代は公式戦未勝利(0勝4敗)の右腕が、1978年秋に新興球団の西武ライオンズからドラフト2位指名を受けたのである。柴田保光、21歳、あけぼの通商。荒削りだが、150キロ近い速球を投げるらしいと記者の間では噂が広がった。長崎の島原農高時代は柔道部に入るも、投げられ役が痛くてすぐ逃げ出し、軟式野球部で投手をやった。卒業後は東京消防庁、郵便局、自衛隊の3つの内定を貰っていたが、島原出身の池田和隆氏が監督を務める名古屋の丹羽鉦電機に勧誘され、周囲からは反対されるも野球を続ける。

 週べ90年6月4日号「プロフェッショナルの原風景」によると、すでに本採用は終わっていたため、柴田は追加採用生の立場で名古屋入り。新幹線のホームで出迎えた丹羽鉦電機の野球部主将は、のちにドラフト外で日本ハム入りする島田誠だった。硬球を初めて投げる柴田は名門チームに打たれるたび、島田に慰められ、「自分が情けない」と悔し涙を流したが、翌日には切り替え何事もなかったかのように練習に励んだ。しかし、柴田が入部したその年の秋、野球部は解散。九州出身の選手たちは福岡に戻り、「あけぼの通商」に新設された野球部でプレーを続けた。地元の新聞では“プロ養成所”と書かれたこともあったが、実際は金欠で食べるのもやっと。島原から取り寄せた味噌やワカメを団地で売り歩き、野球部の活動資金捻出のため、団地のゴミ置き場にあるしょう油の一升びんを集め、一本10円で換金したこともあった。

 給料はあってないようなもので、ユニフォームやグラブは月賦で購入。市営球場を借りられないときは、公園でキャッチボールやランニングに励む日々。練習試合では強くとも、遠征費や宿泊代がないため大会ではすぐ負ける。それでも、「とにかく球だけは速い投手がいる」という未完の大器・柴田にプロのスカウトが目をつけるのは時間の問題だった。78年のドラフト会議当日に阪神から「1位でいく」と電話があったが、世話になった島田がいる日本ハム入りを希望した柴田はこれを拒絶。そして、阪神はあの江川卓に1位入札して抽選に臨み交渉権を獲得するわけだ。柴田の返答次第では、「空白の1日」騒動もまた別の展開を見せていたかもしれない。

首脳陣の評価は「ただ球が速いだけ」


西武1年目、アメリカフロリダ州ブレイデントンでのキャンプでの1枚


 意中の日本ハムではなく西武の指名に難色を示したが、根本陸夫監督の「オレが最後まで見てやるから来い」という一声に背中を押されて入団を決意。西武の契約金は2400万円で月給は18万円ほど。こんな大金をどう使ったらいいのか柴田は真剣に悩んだという。プロ1年目は谷間の先発で1勝に終わるも、「あけぼの通商時代を思えば、いつでも思う存分ボールを握れる今は夢みたいですよ」と持ち前のポジティブさで前を向き、3年目の81年には中継ぎ中心で38試合に投げ、4勝1敗1セーブ、防御率3.26の成績を残す。だが、さあこれからというときに新しいボスがやってくる。広岡達朗が西武の新監督に就任したのである。

「広岡さんが監督になって、一番最初のときにリリーフで失敗したんですよ。後は、あまり使ってもらえなかったですね。ずっと、ほかのチームでやりたいと思ってました……」

 ブルペンを温める柴田に対して、首脳陣の評価は「ただ球が速いだけ」と漠然としたものだった。同僚の松沼雅之はのちに週ベの対談企画で、当時の印象を「柴やん、人が好いからさ。普通、そういうとき先発早く潰れろ、潰れろって思うでしょ。柴やん、全然そんな感じしないのが歯がゆかったよ」と語っている。人の良すぎる典型的な速いけど勝てない投手。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。

 チームがリーグ連覇を達成した82年と83年は1勝に終わり、さらに右手指先の血行障害に悩まされ、「これでもう俺も終わりか」と諦めかけていた柴田にトレードが告げられるのだ。大ベテラン江夏豊との交換で木村広とともに日本ハムへ移籍。直後に広岡監督はハワイV旅行へ飛び立つ空港ロビーで、フロントに怒りを露にした。

「こちらになんの相談もなく(トレードを)まとめてしまった。江夏のことは時間をかけてじっと待っていれば金銭で獲得できたんですよ。貴重な中継ぎ投手の2人を放出する必要は全くない。これで来季の投手の計算が立たなくなった」

日本ハムで平成初のノーヒッターに


90年4月25日の近鉄戦でノーヒットノーランを達成


 新天地で兄貴分の島田誠と再会した26歳の柴田は、モデルチェンジをして生き残りを計る。プロ野球選手が20代後半になって何者でもない、自分のポジションがないっていうのは恐怖だ。元気と勢いでなんとかなる10代、有り余る体力でしのげる20代前半、でも若手選手と呼ばれる時期が終わると一種のリアルさを求められる。周囲を納得させるだけの現実的な数字とか実績だ。もう期待の若手じゃない。崖っぷちの中堅だ。だから、柴田は自分を見つめ直した。瘭疽にかかり爪がはがれるアクシデントにも見舞われたが、右ヒジがよく前に出るようにオーバースローからスリークォーターへとフォームを変えると、変化球の制度は増し、球速は落ちたがキレのいいスピードボールを投げられるようになる。日本ハム移籍2年目の85年は開幕から抑えを任せられるも結果を残せず、先発起用へ。するとこれがハマった。「中4日できちんと間隔があるので(先発は)調整しやすいです」と、リーグ最多の3完封を含む自身初の二ケタ勝利となる11勝を挙げたのである。

 愛妻と約束した1勝するごとに月の小遣い5万円ベースを1万円ずつあげてもらう“家庭内出来高契約”を力に変え、86年には14勝9敗4セーブ、防御率3.38というエース級の活躍。西武時代は使ってもらえずくすぶっていた右腕は、新天地でエース格へと生まれ変わる逆転野球人生を実現させた。だが、直後に異変が起きる。右肩にだるさを感じ、やがて歯ブラシすら持てなくなった。再び右腕の血行障害に襲われたのだ。87年7月23日、東大病院で12時間にも及ぶ大手術を受け、30歳のリハビリ生活へ。

 球速は130キロ台とさらに落ち、それをカバーすべく球種を増やそうとスライダーとシュートを必死に覚えた。89年には再びローテの枠を勝ち取り、9勝を挙げ復活。90年4月25日の近鉄戦(東京ドーム)では平成初のノーヒットノーランを達成する。近藤貞雄監督は「野茂(英雄)の球よりキレがあった」と褒めたたえ、愛妻は新聞社からの快挙を知らせる電話に「ところでうちの主人は勝ったんでしょうか?」なんて真顔で聞き返したという。32歳8カ月のノーヒッターは当時の最年長記録でもあった。

最後は担当医の慎重な姿勢で……


94年9月29日、東京ドームで引退セレモニーが行われた


 90年は12勝10敗、防御率3.11。12完投を記録し、202.1回はキャリアハイの投げっぷり。古巣の西武戦に強く、完封勝ちしたゲームのお立ち台で「チャンピオンに立ち向かって勝つことがプロの目標のひとつ」と言い切り、秋山幸二にサヨナラアーチを浴びた試合後には、床に思い切りグラブを叩きつけ、ロッカーでは怒りの叫びをあげた。あの人の良い一軍半投手が、プロの世界で揉まれるうちにギラついた戦う男へと変貌していた。

 91年にはリーグ2位の防御率2.48。プロ14年目の92年は自身初の開幕投手を任され、王者・西武相手に1失点完投勝利。土橋正幸監督は「今日は柴田と心中するつもりでいたんだぜ」と34歳の快投を称えた。その後も先発投手として投げ続けるが、94年1月29日に虚血性心疾患で緊急入院。5月末には医師団が心拍数などを無線のモニターでチェックする中、プルペンで投球練習をしたが、「さらに強度の高い運動や、プレッシャーのかかるマウンドでどれだけ心臓に負担がかかるのか……」と担当医は実戦復帰には慎重な姿勢を崩さなかった。そして、37歳の右腕はその年限りで現役引退を決断する。この時、プロ入り時の恩師・根本がいるダイエーから誘われたが、「根本さんに迷惑かけるからやめておきます」と断ったという。

 通算84勝のうち、移籍後に積み重ねた勝ち星は76。西武を5年で出された柴田保光は、決して諦めず、後ろを振り返らず、結果的に日本ハムで11年間も愚直にサバイバルし続けたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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