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パンチ佐藤の漢の背中!

88年最多勝の“逆転のマツ”松浦宏明氏。現在は小学生たちの「先生」役に/パンチ佐藤の漢の背中!

 

野球以外の仕事で頑張っている元プロ野球選手をパンチ佐藤さんが訪ねる好評連載、今回のゲストは東京ドーム元年の1988年にパ・リーグ最多勝投手だった元日本ハムほかの松浦宏明さん。現在は都内のフリースクールである「東京コミュニティスクール」で、小学生たちの「先生」役を務めている。活気あふれる子どもたちの元気な声に、「元気配達人」のパンチさんも感心していました。
※『ベースボールマガジン』2022年5月号より転載

パンチさんへの決め球はフォークボールだった


パンチ氏[左]、松浦氏


「まっつん」

 東京コミュニティスクールの子どもたちが、松浦さんに付けた呼び名だ。

 35年前の1987年、プロ入り3年目の松浦さんは、「逆転のマツ」と呼ばれていた。その年、リリーフで開幕5連勝。ビハインドの状況で松浦さんがマウンドに上がると、とたんに打線が活気づいて逆転する、そんな試合が続いたからだ。

 翌88年には先発に転向。パンチさんがオリックスに入団し、松浦さんと対戦するのは、それから2年後の90年になる。

パンチ 僕がプロ野球界を引退して28年になるんで、松浦君とも28年ぶりということだよね。対戦したのは覚えているんだけれども、打ったとか打ち取られたとか、記憶があいまいなんだ。松浦君のほうはどう?

松浦 僕は1回だけ覚えているんですよ。佐藤さんが代打で出てきて、結果は確か僕が打ち取ったと思います。それが初対戦だったはずです。【編集部注】実際の初対戦は90年9月5日(西宮)、第1打席は左越え二塁打、第2打席が空振り三振。

パンチ 僕を打ち取る作戦はどうだった? 前に同じ日本ハムの柴田保光さんに取材したとき(20年6月号)、「パンチは打ち取りやすかったよ」って言われちゃってさ(笑)。

松浦 チームのデータでは、確かインコースは多少甘くてもいいから(ファウルで)カウントを取るボール球でいって、勝負は外の低めだったと思いますよ。

パンチ ちょこんと打つから?

松浦 そうです。そこに落ちる球を投げるよりは速い球のほうがいい、と。

パンチ 松浦君の個人的な作戦は?

松浦 僕は結構、攻めのピッチャーでしたから。真っすぐでインコースを攻めつつ、変化球でカウントを取りたいと思っていました。佐藤さんはおそらくそれを打ってくる。でも左バッターは、僕のカーブがファウルになりやすいんですよ。だからカーブでファウルを取って、最後はフォークボールで三振を取る、というイメージでしたね。

パンチ 柴田さんは「1球目から振ってくるから、初球はストライクがいらない。で、2球目にストライクくさいボール球を投げると飛びついて振ってくるから、ラクだった」って(笑)。そんなふうに見られていたんだって思ったね。

松浦 佐藤さん、結構決め打ちでしたよね。初球の真っすぐ系は振ってくる。

パンチ ピンチヒッターだからね。

松浦 追い込まれてからも、決め打ちのイメージがありましたよ。だからその逆、逆を突く。特にフォークボールは決め打ちできないから、勝負球として有効かなと思っていました。

日本ハムの85年度新入団選手会見[左から2人目が松浦氏]


パンチ 松浦君はマウンドでも、とても落ち着いたイメージがあってさ、ずっと同い年だと思っていたら、2つ下だったんだね。てっきり社会人上がりだと思っていたんだ。

松浦 いえいえ、高卒ですよ。船橋法典高校からドラフト外で入りました。

パンチ プロの話は、いつごろからあったの?

松浦 自分で言うのも恐縮なんですけど、一応千葉では1、2を争うピッチャーだと評判にはなっていて、大会のときは、日本ハムはじめスカウトの方々もチラホラ来ていたそうです。

パンチ 松浦君自身は、すぐプロに行きたかった?

松浦 僕は社会人に行きたかったんです。実際、セレクションに呼ばれて、入社の話をいただいた会社もありました。大学からも、いいお話をいただいていました。

パンチ それがプロに変わったのはなぜ?

松浦 最初2球団から、「練習生の形で取りたい」という話があったんですがドラフト前日、日本ハムから「ドラフト5位にかける」と連絡が来ました。親父はずっと僕をプロに行かせたいと思って応援してくれていたので、「それならプロに行け」と。

パンチ ただ、実際はドラフト外だったわけだよね?

松浦 ドラフト当日の夕方、「ちょっと事情があって、指名できなくなった」と高校の監督経由で連絡が来ました。親父には「ドラフト外でもプロに行け」と言われましたが、僕は気持ちが折れたので、もう行きたくないと思いました。

パンチ なんだよ、話が違うよって思うよね。そこから考えが変わるまでには、何があったの?

松浦 社会人行きの話も考えながら何日か過ごしていたとき、テレビでドラフト特集があったんです。そこで王(貞治=当時巨人監督)さんが高校生に向けて、「チャンスがあるなら、高校から直接プロに入りなさい。大学、社会人で万が一にもケガなどしたら、タイミングを逃してしまう。それならプロに入って力を伸ばしたほうがいい」と話していたのを見て、一気に入団へ心が傾きました。

満員の西武球場にあふれるため息が快感だった


4年目の88年に15勝を挙げてパ・リーグ最多勝に輝いた松浦氏


パンチ 高卒、大社出、どちらがよかったかは結果的に人それぞれな面もあるけれども、松浦君の場合はそれで大正解だったね。それでもう4年目の88年には、15勝で最多勝(チームメートの西崎幸広西武渡辺久信と3人の同時受賞)を取ったわけだから。しかも対戦カード別で一番多かったのは西武戦でしょう(15勝中6勝)。あのときは西武も全盛期で、すごいラインアップだったじゃない。

松浦 平野(謙)さん、石毛(宏典)さん、秋山(幸二)さん、清原(和博)、バークレオ……。なんか相性が良かったんですよね。それにあのころの西武の応援ってすごかったじゃないですか。西武球場だと9割がた西武ファンだった。そこで秋山さんとかを三振に取ると、「ああ〜」って球場中からため息が起こるんです。僕、それがものすごい快感で(笑)。

パンチ そりゃあ、あとから入団した僕と対戦するときなんか、もう同い年ぐらいの風格になってるよね(笑)。

松浦 やはり名だたる選手たちと対戦するのは楽しかったですよ。イチロー君もそうだし、清原なんか新人の頃、ファームの試合で対戦しているんです。インコースに投げて、ぶつけてしまいましたが。

パンチ 阪急、オリックス戦はどうだった?

松浦 やりづらかったですよ。ブーマーは仲良しだったからよかったけど、福本(豊)さんとかランナーに出ると、メッチャ緊張しました。でも一度、福本さんをけん制でアウトにしたことがあるです。これは僕の中で、一番の自慢話です(笑)。

パンチ すごいね。どうやってアウトにしたの?

松浦 福本さんは意外と動かないタイプなんですが、そのときは何か「走ってきそうだな」と雰囲気を感じたんです。(キャッチャーの)田村(藤夫)さんは普通に投げてこいと言っているんだけど、勝手にけん制してしまいました。そうしたら、アウト。「すげえ、俺やっちゃった」って思いました(笑)。

パンチ 俺、福本さんのインタビューで読んだんだけど、「盗塁のとき、ピッチャーのどこを見るんですか?」と聞かれて、「目や」って答えていたね。

松浦 ピッチャーがランナーを目で抑えているかどうか、ということですね。抑えていないとすぐ走ってきますから。

パンチ 僕は松浦君といえば日本ハムのイメージしかなかったけど、最後は横浜でやっているんだね。

松浦 プロ11年目の95年、シーズン途中に横浜へ移籍したんです。そのオフ、自由契約になりました。

 まだ29歳。現役を続ける自信はあった。

 他球団の秋季キャンプに、当初5日間の予定でテスト参加。主力クラスを抑え、合格内定に等しい言葉を受け取った。その後、別の球団のテストを受ける予定だったが、「最終日まで参加してほしい」と言われ、2球団目のテストを断って残った。

 帰京し、テスト合格の電話を待った。ところが、電話口の言葉は「打撃投手としての採用に変わりました」。そこで、「心が折れて、引退を決めました」と松浦さん。もう、未練はなかった。

中国の野球界を変えたいと思った


88年1月、伊豆半島の温泉地で一緒に自主トレをした西崎幸広氏[左]と松浦氏


パンチ 気持ちが切れてしまうと、難しいよね。さて、引退を決めて、そこからどうしようと考えた?

松浦 これから自分がやりたい仕事ってなんだろうと考えたとき、自分が野球選手のパフォーマンスを改善できる側に回れたらいいなと思ったんです。そこで行きついたのが治療院で、資格を取るため医療専門学校に通い始めました。

パンチ ああいう資格を取るには、試験も必要でしょう? よくやったね。

松浦 勉強は、そんなに苦ではなかったですよ。新鮮な学びがあって、とても楽しかったです。

パンチ それですぐ、治療院を開いたの?

松浦 96年に横浜で「松浦整骨院」を開きました。そのあとパフォーマンス・コーディネーターの手塚一志さんと一緒に、野球の指導をする会社にも携わりました。どちらの仕事もムチャクチャ楽しかったんですが、逆に充実しすぎていてつまらなくなって……。もっと刺激が欲しいと思いました。それで、中国に目を向けたんです。10年以上前ですが、まだまだ中国も貧しい部分があって、日本との関係も決してよくはなかったですよね。

パンチ そんなところに飛び込みたくないよ、俺(笑)。

松浦 どんな国なのか、見てみたいと思ったんですよ。

パンチ 旅行で行けばよかったじゃない!

松浦 半分、旅行ですよ。そこで中国の野球事情も調べてみたら、プロと言っても名ばかりで、十分な環境も給料も与えられず、選手もモチベーションに欠けている。まず中国社会に「野球」という競技の認知度がないために、環境の整え方も分からないんですね。これはなんとかしてあげたいな、と思いました。

パンチ 何かツテを見つけて、向こうのプロ野球チームに話を持っていったわけ?

松浦 最初に行った上海に、ゴールデンイーグルスというチームがあったんです。そのチームが所属する学校に飛び込みで行って、「こういう者ですが、ぜひ監督に会わせてください」と副校長に直談判しました。

パンチ ちょっと待って。言葉はどうしたの?

松浦 行く前に1年半、マンツーマンで中国語を習って覚えました。

パンチ すごいな。それで監督には会えたの?

松浦 そのときは遠征試合でいなかったので、「また来ます」と言って名刺を置いて帰りました。それで2、3カ月後に行ったら、監督と意気投合して、「次に来るときは、ぜひ練習を見てくれ」と言ってもらえて、投手陣を指導することになりました。

パンチ 松浦君の性格だったら、好かれるよ。僕も奥さんが中国人だから分かるんだけど、ドンッと正面からぶつかっていくと、向こうも喜んで受け入れてくれるんだよね。

松浦 最初の1年間上海にいて、次の1年は江蘇省でも指導しました。そのうち、WBCのベンチに入れさせてもらうなど、どんどん深く中国野球に関われるようになりましたね。WBCに出て注目されるようになってから、少しは中国国内の野球に対する目も変わってきたように思います。

パンチ 中国で指導した中、楽しかったのはどんなところだった?

松浦 練習内容に始まり、チームを作るところまで全般的に任せてもらえたことですね。僕の持っているスキルをすべて使って、選手一人ひとりを伸ばしていくことができました。投手起用も僕の考え通りにさせてもらえたので、とても良かったです。

パンチ 松浦君は、人生の終わりに「楽しかったな」って言えるタイプだね。常にプラス思考で、実行に移せる。

松浦 はい、究極のポジティブ思考で、ネガティブなことは一切考えない。試合でもそうでしたね。

パンチ だから余計、マウンドでもドシッとして見えたんだよ。そこから今度、この東京コミュニティスクールに来たのはどんなきっかけがあったの?

松浦 中国野球に2年関わって、ひと段落ついたので、やっぱり日本でも野球教室か何かをやりたいなと思ったんです。そのとき日本ハム時代の友人経由で、この学校の話をもらいました。

国語とITは成長も英語と算数はまだ勉強中


パンチ 野球とは違うけれども、先生として教える喜びは同じだもんね。ここはどんな学校なの?

松浦 小学1年から6年生までの子どもたちが通う、NPO法人のマイクロスクールです。子どもたちは地元の公立小学校に籍を置きながらウチに通って、出席証明書や学習の記録を学校に提出することで、卒業の認定をもらうんです。「テーマ学習」に特長があるカリキュラムで、僕らが生きていくうえで欠かすことのできない、「自主自律」「社会寄与」といった6つの探究領域について6年間、繰り返し学んで身に付けていきます。

パンチ 松浦君は、その中でどんなことを担当して教えているの?

松浦 僕もそのテーマ学習を担当しているんですよ。あとは、IT。小学1年生からタブレットの使い方を覚えて、5、6年生にはパソコンでプログラミングできるようにするカリキュラムがあります。僕は3年生までのところを見ています。それから体育ですね。そこは全学年、僕が一人で指導させてもらっています。

パンチ すごいね。僕なんかスマホをいじるだけで精一杯だよ(笑)。

松浦 いえいえ、僕も今年で4年目ですけど、子どもたちと一緒に成長させてもらっている形です。国語とITに関してはだいぶ詳しくなったけど、英語と算数はもうちょっと勉強しないとダメですね(笑)。

パンチ 算数は難しいよ。俺なんか小3のときにあきらめたもん(笑)。

松浦 僕も算数の時間は寝ていたほうなんで、最初は「小2や小3でこんな難しいこと勉強しているの?」って感じでしたよ。すると、「こんなのが分かんないの?」って教えてくれる子が必ず出てくるんです。それがしめしめ、というところなんですよね。僕に教えることで、その子たちが学べる。だから、わざと分からないフリをすることもあるんですよ(笑)。

パンチ それだよねえ。松浦君は根っからの先生なんじゃない? 

松浦 僕のモットーは、常に子どもと同じ目線でいることです。だから呼び名も「まっつん」。何をするにしても先生と生徒ではなく、同じ一人の人間としての目線で取り組んでいきたい。日々、自分も一緒に勉強しています。

パンチ 今日、学校に来てまずね、子どもたちがハツラツとしているな、と思ったんだよ。昔の子どもたちみたいというか、これが子どもだよね。今は違うじゃない。いいな、と思ったよ。

松浦 僕も最初、ここへ見学に来たとき、そう思いました。ちょっと違うなって。

パンチ 松浦君がハツラツとしているから、ハツラツとした友達がいて、こういうハツラツとした場所につながるんだね。

松浦 毎日子どもたちの顔を見るたび、ここで働いていて本当によかったなと思うんですよ。スポーツを通して学んできたものは教育につながるところが必ずあるので、プロ野球界の後輩たちにも、第二のキャリアとしてどんどん教育機関を選んでほしいと思います。僕ももっともっと勉強して、そのいい見本になりたいですね。

パンチの取材後記


 最近僕が会った中で、一番ハツラツとしている55歳かもしれないというくらい情熱に満ちた目と話しぶりに、まずは脱帽しました。

 本文には書けなかったけれども、スクールに入学しながら途中で辞めざるを得ない子も、中にはいる。そんな子のことも気に掛けて、たまに連絡を取っているのだとか。それを聞いたとき、自分の子ども時代を思い出しました。僕が小学生のころ、野球の練習日に中身のないおにぎり3つしか持っていけなかったことがあったんです。そのとき、あるコーチがこっそり、おかずたっぷりの自分の弁当と取り替えてくれたんですよ。成長の過程で、そういう優しい大人の人に助けられて、僕はここまで来ることができた。だからずっと、自分もそういう子どもがいたら声を掛けてあげられる、カッコいいおじさんになりたいと思ってきました。松浦君も、まさにそんな「カッコいい大人」ですね。

 月曜から金曜の日中はコミュニティスクールで教え、土日は故郷・千葉の中学選抜女子野球チームや船橋市の選抜チームでコーチをしているとのこと。それでまだまだ中国語を上達させたい、さらにもう一度中国で野球界に旋風を引き起こしたいと考えているんだから、「すごい」のひと言です。僕も中国語は最初、上海の義父母に「うまいね」と言われたんだけど、その後は「あれから変わっていないな」と言われちゃって(笑)。松浦君のチャレンジ精神を見習わないといけないですね。彼が頑張れば、プロ野球界から教育界へのいいラインができる。この調子で突き進んでほしいと思います。

●松浦宏明(まつうら・ひろあき)
1966年5月19日生まれ。千葉県出身。船橋法典高からドラフト外で85年に日本ハムへ入団。88年に15勝5敗4セーブ、防御率2.76。同僚の西崎幸広、渡辺久信(西武)とタイでパ・リーグ最多勝を獲得した。95年に横浜へ移籍し、同年限りで現役引退。通算成績は230試合、54勝46敗14セーブ、防御率4.32。その後は整骨院院長、スポーツトレーニング指導、中国での野球指導などを経験し、現在は東京・中野区の特定非営利活動法人「東京コミュニティスクール」のスタッフ。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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