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逆転野球人生

二番手捕手・矢野燿大が、トレードをきっかけに30代中盤でリーグ屈指の正捕手に成長できた理由【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

険しかった正捕手への道


中日時代の矢野。91年から97年まで中日のユニフォームを着た


 彼は、自分の中に芽生えかけた不安を打ち消そうと、深夜の公園でひたすら素振りを繰り返した。

 一軍にはいるもののベンチに座っているだけ。出番がないまま終わる日も多かった。「また正捕手との差が広がってしまった」なんてマイナス思考に陥ると、帰宅してから真夜中の公園に走り、バットを振った。もう20代も残りわずかだ。オレはこのまま終わりたくない…。中日時代の矢野燿大は、そういう立場に置かれた野球選手だった。

 1990年に東北福祉大からドラフト2位で中日に入団。巨人も次代の正捕手候補として矢野を熱心に追い入札するも抽選で敗れ、社会人キャッチャーの吉原孝介を2位指名した。この時、矢野は巨人が当たりクジを引くことを願っていたという。中日には2学年上の若いレギュラー捕手、中村武志がいたので出場機会が限られると思ったからだ。ドラフト直後の週べの矢野評は「強肩強打。日米大学野球も2回出場し、内野もこなす万能選手」。その前評判通り、1年目の夏から控え捕手として一軍ベンチ入りするも、やはりライバルの壁は高かった。「鉄拳制裁星野」なんて現代ならコンプラ的にありえないむちゃくちゃな横断幕が球場で掲げられていた時代。闘将・星野仙一が直々に鍛えた中村はリーグ屈指の強肩に加え、91年に20本塁打、93年は18本塁打と攻守ともに全盛期を迎えつつあった。

 そんな3年目のオフ、衝撃の事件が起きる。ドラフト同期でともに中日入りした東北福祉大の同級生が早くも戦力外となったのだ。当時の心境を矢野は自著『考える虎』(ベースボール・マガジン社新書)でこう書く。

「彼が戦力外になったと聞き、慌てて寮の部屋へ行ったのですが、すでに退寮した後でした。プロ入り後はお互い、自分のことで精いっぱいで、会話を交わす時間も減っていました。戦力外通告を受け、一人、荷物を片付けているときの彼の気持ちを想像すると、胸が痛くなりました」

 そして、矢野は「いつ自分がそうなってもおかしくないんだ」と自身の置かれた立場を痛感する。57試合の出場に終わった5年目、95年の秋季キャンプでは、出場機会を得るために外野手の練習を始めた。背番号も2から38へと変更され、もうあとがないのは分かっていた。控え野手が同じ力なら将来への投資を込みで若い選手を使うだろう。深夜の公園でバットを振ったのもこの頃だ。96年には打率.346、7本塁打と打撃で結果を残すも、正捕手への道は険しい。高卒でプロ入りの中村は先輩とはいえ、ほぼ同世代だ。悠長に衰えを待つわけにもいかない。キャンプではキャッチャー練習を終えてから、外野特守を受け泥にまみれた。

阪神へのトレードで野球人生が好転


97年10月に行われた阪神入団会見。左から大豊、吉田義男監督、矢野


 97年には自己最多の83試合に出場。プロ7年目にして60試合でマスクをかぶり、第二捕手としての地位を確立し、ようやく遥か先をいっていたライバルの背中を捉えかけていた。実は、中村も自分にはない粘り強いリードをする矢野の急成長を恐れていたという。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない――。

「トレードが決まったから」

 97年10月13日午後10時30分、自宅マンションの電話が鳴り、球団からそう告げられるのだ。想定外の阪神行き。その電話の内容を伝えると、愛知出身の妻は号泣したという。中日からは矢野と大豊泰昭、阪神からは関川浩一久慈照嘉の2対2の大型トレードである。関川は矢野と同じ90年ドラフト2位で駒大から阪神入り。年齢だけでなく、器用さを買われ捕手と外野手を兼任する立ち位置も似ていた。結果的に両者にとって、このトレードが野球人生を大きく好転させることになる。

 捕手強化が急務の阪神は当初、中村武志を欲しがったが、中日が希望した外野手の桧山進次郎は出せなかった。そこで大学時代から能力を高く評価していた矢野へとターゲットを切り替えたのだ。トレードを告げられた夜は悔しさから一睡もできなかったが、やがて矢野の中に「星野監督と中日を絶対に見返す」という気持ちが湧き上がってくる。週べ98年6月29日号では、移籍前の心境をこう語っている。

「パ・リーグなら、またイチから勉強し直さないといけないけど、セ・リーグだったから、そのままスムーズに入ることができました。最初はチームを変わるということに戸惑いもありましたが、2、3日たったら、もう今度はいかに中日を倒すか、などと考えていましたよ」

 当時の阪神はBクラスが定位置の暗黒期真っ只中。「星野ケンカ野球で育った矢野が大人しいチームの起爆剤に」という声も目立った。しかし、98年6月25日の中日戦。ホームクロスプレーの判定を巡り、審判の胸を小突いてしまった捕手の矢野は退場処分に。両軍ベンチから選手が飛び出す騒ぎになるが、エキサイトする矢野を「テル、気持ちは分かるが、もうやめろ」と懸命になだめたのは元同僚・山本昌だった。普通ならば味方チームの誰かが来てくれるのに、止めてくれたのは古巣の先輩だ。オレはまだ阪神の一員ではないのか、と寂しさを感じた。

 一方で5月26日の中日戦で川尻哲郎のノーヒットノーランをリードする強烈な恩返しも話題に。中日時代の矢野は敵の川尻の投球をベンチから見ながら、「もっと緩いボールを使えば、もっと勝てるのに」と思っていた。「だって、彼は一本調子になってしまうと危ないんですよ。緩急をつけることが大事。勝負どころに来て、あえて緩いボールのサインを出せるか、どうかです」と川尻の投球の特徴を巧みに引き出し、大記録をアシストした。移籍1年目の98年、矢野は自己最多の110試合に出場するも、阪神は首位と27ゲーム差離されぶっちぎりの最下位。その環境を変えようと、やってきたのがヤクルトの監督を退任したばかりの野村克也だった。

ノムラの考えを吸収して


星野監督時代の03年、優勝を果たして胴上げされた


 矢野は自軍の攻撃中のベンチでは野村監督の目の前に座り、ノムラの考えを少しでも学ぶように務めた。マスク越しに打者や走者を、そして打席では相手キャッチャーの攻め方を観察することを覚えた背番号39は、移籍2年目の99年に30歳で初めて規定打席に到達し、打率.304を記録する。この夏、初のオールスター出場を果たし、第2戦の甲子園で新庄剛志とともに優秀選手賞に輝く活躍。地元ファンからの大声援に「タイガースの一員になれた」と実感した。なお、トレード相手の関川も打率.330で同年の中日優勝にレギュラー外野手として貢献。両チームにとってwin-winの移籍劇となった。矢野はプロ入り10年近くかけて、ついに正捕手の座を手中に収めたのだ。そうなると、監督から求められるハードルもさらに高くなる。ときにノムさんのマスコミを通した“ボヤキ”に腹を立ててしまうことがあったが、一度だけこう褒めてもらったと自著で嬉しそうに明かしている。

「古田(敦也)は、ヤクルトのそれほど球の速くないピッチャーを受ける中で、成長できたんや。お前も今、いろいろと工夫してリードしようとしている。それが後々、必ず生きてくるんやから、頑張れ」

 結局、阪神は98年から4年連続の最下位と暗黒期からは抜け出せず、名将・野村をもってしても、チーム再建はかなわなかったが、後任の星野監督により03年に18年ぶりのリーグ優勝を飾ることになる。その年、矢野は正捕手として126試合に出場。打率.328、14本塁打、79打点の好成績で自身初のベストナインとゴールデン・グラブ賞を獲得する。04年には138試合フル出場。05年には広い甲子園でキャリアハイの19本塁打をマークして岡田阪神のリーグVに貢献する。通常ならば体力的に緩やかに下り坂に入る30代中盤に、矢野は捕手としても打者としても飛躍的な進歩をみせたのだ。通算112本塁打のうち、95本を30代以降に放っている。MBSラジオで対談した古田敦也は、この頃の矢野の打球飛距離がいきなり伸びたので、打席に入ってきた際に「矢野、どうしたの? お前なにか(飛ばすコツを)つかんだやろ」と聞いたことがあると明かしている。

2010年9月30日、満員の甲子園で引退セレモニーが行われた


 30代の遅咲き逆転野球人生。高校時代は希望大学のセレクションに落ち、プロ入り後はレギュラー定着までに時間が掛かった。苦労人の矢野はようやく手に入れたそのポジションを失うまいと懸命に考えながらプレーをした。当然、そういうベテラン選手の貪欲な姿勢はチームに好影響を与え、歴代のボスたちからは重宝される。初めての日本シリーズを戦う前、強力ダイエー打線の攻略法を聞くため社会人野球シダックスの監督を務める野村の下を訪ね教えを請い、のちにオリックスの指揮を執った岡田彰布からは「戦力として矢野が欲しい」と誘われている。トレードに出した星野でさえ、矢野が移籍した直後、正捕手で起用されていないことに、こう怒りを露にしたという。

「阪神はなぜ矢野を使わないんだ。こっちはできあがった捕手を手放すのは痛かったのに」

 そして、背番号39の晩年。メジャー帰りの城島健司の入団により、出場機会を求め移籍を考えていた矢野を「ベンチでどう過ごすかは、お前にとってすごくいい勉強になる」と引き留めたのも、阪神のオーナー付シニアディレクター職の星野だった。肩や足の衰えは練習量でカバーしたが、ついに10年シーズンには右肘が悲鳴を上げ、ベンチ前でキャッチボールをするのもキツくなった。真夜中の公園で、こんちきしょうとバットを振った日々が遠く昔に感じられる。気が付けば、矢野燿大は40歳を過ぎていた。中日でなかなか試合に出られずくすぶっていた若者は、移籍先で文字通り完全燃焼して、20年間の現役生活に別れを告げたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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