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逆転野球人生

野手で戦力外通告から…まさかの投手再転向でテスト入団 阪神・遠山奬志はなぜ復活できたのか?【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

“江夏2世”と呼ばれた1年目


1年目の1986年、いきなり8勝をマークして脚光を浴びた


 その男は、若くして栄光への階段を駆け上がり、かと思えばときに傷だらけで地獄の門を叩く、そんなドラマチックな野球人生を歩んだ。

 始まりは怖いほど順調だった。遠山奬志は熊本・八代第一高秀(現・秀岳館高)で2年生の夏から投手になり、通算69勝3敗の超高校級サウスポーとして鳴らした。1試合の最高奪三振18、平均奪三振は12を記録。対外試合のノーヒットノーランは通算11度を数える。当然、プロのスカウトも熊本にこぞって駆けつけたが、遠山はもっと楽しみながら野球をやりたくて、プロ11球団の誘いはすべて断った。特に熱心だった巨人西武に対しても「社会人に進みます」と門前払い。だが、阪神のスカウトはわざわざ自宅まで来たので、諦めてもらうために「1位指名ならタイガースにお世話になります。2位以下だったら社会人に進みます」なんて無理な条件をふっかける。この85年ドラフト会議、阪神はPL学園高の清原和博を1位指名することが確実視されていたのだ。しかし、6球団が競合した地元のスーパースター清原を阪神は抽選で逃す。そして、外れ1位指名で遠山の名前が呼ばれるのである。

 えっマジかよ? ドラフト開催時、体育の授業のマラソンで校外を走っていたら、突然呼び戻され自身の1位指名を知った。学校にはすでに記者陣が集まり、球団創設以来初の日本一に輝いた猛虎フィーバーの真っ只中、18歳左腕への注目度は高かった。ライバルは同期の巨人ドラ1桑田真澄だとマスコミは騒ぎたて、遠山も「桑田君には絶対負けない。彼がエリートなら、ぼくは雑草のたくましさをみせてやる」なんて強気なコメントで答えた。体重オーバーでキャンプインを迎え開幕こそ二軍スタートも、4月27日の中日戦で早くも一軍デビューを飾り、1回無安打無失点。2戦目から先発にまわると、5月14日の広島戦で初勝利を初完投で記録する。球団では江夏豊以来、19年ぶりの高卒ルーキーの勝利投手誕生だ。直球のスピードは130キロ台だったがカーブの制球がよく、当時珍しかったカット・ファストボールは打者の手元で食い込むようにスライドする。遠山のそのマウンドさばきと度胸の良さは、やがて“江夏2世”と呼ばれるようになる。

 ローテーションの一角を勝ち取り、6月20日の中日戦では途中鼻血を流しながらプロ初完封勝利。86年が現役ラストイヤーとなる広島の山本浩二は「腕が遅れて出てくるから、なんともタイミングがとりづらい」と戸惑い、自チームの岡田彰布は「テンポがいいので実に守りやすい」と期待のアレを絶賛した。あらゆる記録が、江夏以来の快挙。それでも週べ86年6月30日号の斬り込みインタビューでは、「ピンとこないですね。あの人(江夏)が、タイガースで投げていたころの記憶がありませんから」と飄々と答える67年生まれの遠山もまた、怖いもの知らずの“新人類”と呼ばれた若者だった。

ロッテでは野手に挑戦


ロッテでは途中から野手に転向してバットで勝負した


 1年目は27試合で8勝5敗、防御率4.22。新人王は長富浩志(広島)に譲ったが、将来のエース候補としては上々の1年目を過ごす。しかし、秋に参加したアメリカの教育リーグで、落ちる球をマスターしようと投げ込むうちにヒジと肩を痛めてしまう。さらにはオフに夜の私生活を写真週刊誌に激写されるプロの洗礼も浴びて、2年目は0勝3敗と急失速。3年目の88年は主に中継ぎで2勝9敗に終わると、早くもトレード話が報じられるようになる。そして、ヒジの故障の影響もあり、わずか7試合の登板で未勝利に終わった90年。フロリダの教育リーグから帰国すると、空港で報道陣に囲まれ、自身のトレード成立が近いことを知らされる。秋季キャンプ中に中村勝広監督に呼ばれ、「頑張ってこい」とロッテへの移籍を告げられるのだ。ベテランの高橋慶彦との交換で、まだ23歳の元ドラ1左腕がパ・リーグへ。ロッテの金田正一監督は「まず、その体を絞り込まなきゃ。新人の時のフォームに戻そうとしないで、新人の時の体型に戻そうとすればいいんや」とカネヤン流エールで歓迎した。

 だが、新天地の遠山は年間30試合前後に登板するも、常に準備が必要な中継ぎの便利屋稼業に身も心も削がれていく。当時は勝ち負けのつかない中継ぎやワンポイントに対する評価も低かった。そんな毎日を過ごすうちに、次第に「野手で勝負してみたい」という気持ちが強くなっていくのだ。もともと高校時代は、打率4割4分超えの高校通算35ホーマー。広い藤崎台球場で1試合3発も記録したことがある長距離砲だった。中西太ヘッドコーチの後押しもあり、94年の夏場からはピッチャーとして練習したあと、打撃練習もこなし、やがて野手一本に絞り再出発。96年にはイースタン・リーグ最多記録の99安打を放つも、守備・走塁面に不安があり、一軍ではほとんどチャンスを貰えなかった。そして、薄々覚悟はしていたが、野手3シーズン目の97年ファーム最終戦が終わると戦力外通告を受けるのだ。十代の頃、“江夏二世”と呼ばれたサウスポーは、30歳になり野手としてクビになった。

 ありがたいことにロッテからはスカウト就任要請のオファーも届いた。ドラフト1位でプロ入り後、投手で鮮烈なデビューを飾り、トレードを経て、野手にも挑戦。やることはやった……つもりだった。だが、実際に戦力外になると、不思議と充実感より野球への未練が勝る。『日本プロ野球トレードFA大鑑 2004』(ベースボール・マガジン社)収録のインタビューでは、当時の様子を遠山本人がこう語る。

「そんな時に「どうするんや?」って電話をくれたのが、阪神時代の先輩の中西清起さん。現役を続けたいのでテストを受けようと思うと伝えると、中西さんが阪神にテストの日程を聞いてくれると。それで後日、「3日間あるから」と教えてもらったんです」

 先輩の助けもあり古巣のテストへ行くと、昔ともに阪神の近未来エース候補と期待されたサウスポーの仲田幸司も参加していた。誰もが夢を終わらせることができず、あがいている。そんなプロの厳しさを肌で感じたテスト2日目の帰り際、一枝修平ヘッドコーチから、「遠山君、3日目はちょっとピッチングを見せてくれないか?」と告げられた。その瞬間、あぁ野手じゃダメなんだなと悟ったという。投げると言ってもファームで打撃投手をたまにやっていた程度。2年以上、ブルペンには入っていない。受かるわけないだろう……。ほとんどやけっぱちである。

野村監督の下、リリーフで開花


再び阪神のユニフォームを着て、リリーフとして1999年から3年連続50試合以上に登板


 だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない。吉田義男監督の前で投じた36球が、逆転野球人生のきっかけとなるのだ。ストレートは最速134キロだったが、直球の握りで自然とスライドする“まっスラ”が指揮官の目に留まった。その年から現場復帰していた吉田は、遠山が一番良かった新人時代を知る監督でもある。野手時代に肩を休めたからか不思議と痛みはなかったが、久々の本格的な投球に右太ももが痙攣した。実はこのピッチングテストは、外野からの回転の良い返球を見た首脳陣が、「ピッチャーに戻した方がいい」と判断して急きょ実施された追試だった。こうして、30歳の遠山に投手としてまさかの合格通知が届いたのである。

 プロ13年目、年俸900万円の再々出発。阪神復帰1年目の98年は二の腕の肉離れを起こすなどアクシデントに見舞われ、まずは投手仕様の体に戻すことを心がけた。そして、99年に野村克也監督が就任すると、「もう少し腕を下げてみたらどうや。左バッターのインコースに、シュートか落ちる球を投げられないか」とアドバイスされ、遠山は自分の生きる道を見つけていく。ノムさんは、「遠山なんて、ブルペンで見ていたらとても使う気にならん。でもあの度胸はすごい。130キロそこそこで真っ向勝負にいきよる。普通はいけない」とマウンド度胸を絶賛して、その気にさせた。

 さらに当時の阪神投手コーチはロッテ時代の監督・八木沢荘六だった。遠山がサイドスローを意識したのは、94年に八木沢監督から「何とかイチローを抑えてくれないか」と言われ、上よりは横からの方が打ちにくいんじゃないかと考えたのが最初のきっかけである(この年、210安打を放ったイチローを遠山は4打数無安打に抑えている)。多くの出会いにも恵まれた古巣でのリスタート。99年には、なんと自己最多の63試合に登板。もはや中継ぎでもワンポイントでもかまわない。一度クビになった身、与えられた場所で自分の仕事をしようと腹をくくった。

 10年ぶりの勝利投手に、13年ぶりの甲子園のお立ち台。防御率2.09の安定感。右投手の葛西稔と交互に一塁を守る“遠山・葛西スペシャル”は大きな話題となった。これには代えられた一塁手のマーク・ジョンソンも「まさか自分が交代させられるとは思わなかったな(笑)。でも、ナイスな判断だったと思うよ」なんて苦笑い。遠山本人はのちに「実際、つらかった。ピッチャーとしたら情けないと言いますか、嫌でしたよね。右バッター相手でも抑えられるという信頼がなかったということだし」と本音を語っている。

 巨人の松井秀喜に対して無類の強さを発揮し、“ゴジラキラー”を襲名したのもこの頃だ。当時NPB最強スラッガーだった背番号55に対して、前打者を敬遠してまで松井勝負にこだわり、三振に斬って取る徹底ぶり。カムバック賞に輝く99年は、執拗な内角シュート攻めで13打数無安打と完璧に抑え、ゴジラ松井に「遠山さんの顔も見たくない」といわしめた。

 2000年には初のオールスターにも出場。結局、99年から01年まで3シーズン連続の最下位に終わった野村政権だったが、その3年間すべてで50試合以上に投げまくったのが背番号52だった。

 サウスポーは二度死ぬ―――。一度目はプロ10年目の野手転向で。二度目は30歳の戦力外通告で。いわば、「虎の野村再生工場」の最高傑作が、地獄から生還した遠山奬志だったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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