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酔いどれの鉄腕

野村南海のシンキングベースボールは最先端の野球だった/佐藤道郎『酔いどれの鉄腕』

 

 元南海─大洋の佐藤道郎氏の書籍『酔いどれの鉄腕』が2月初旬にベースボール・マガジン社で発売される。

 南海時代は大阪球場を沸かせたクローザーにして、引退後は多くの選手を育て上げた名投手コーチが、恩師・野村克也監督、稲尾和久監督との秘話、現役時代に仲が良かった江本孟紀門田博光、コーチ時代の落合博満村田兆治ら、仲間たちと過ごした山あり谷ありのプロ野球人生を語り尽くす一冊だ。

 今回から不定期で、その内容の一部を掲載していきたい。

大体な守備フォーメーション


『酔いどれの鉄腕』表紙


 今回は「第2章南海時代」より、野村克也兼任監督時代のシンキングベースボールについての箇所を抜粋する。野村監督は1970年から兼任監督となり、ヘッドコーチのブレイザーとまったく新しい野球をスタートさせた。

「南海はケチだったし、大阪球場のお客さんも少なかったけど、野球は最先端だったよ。野村さんというと、ヤクルト監督時代のID野球の印象が強いかもしれないが、その最初が南海時代、選手兼任監督の野村さんとヘッドコーチのブレイザーの『シンキングベースボール』、つまり考える野球だからね。

 もともと南海は走者を出したら足やバントを使って、どんな形でも1点を取る野球が伝統としてあった。野村さん自身がホームランバッターでありながら盗塁もしたしね。ホームスチールが得意だと自慢してたこともあったな。

 兼任監督となった野村さんは、そういう南海の伝統的な野球にプラスして、ブレイザーの意見も取り入れながら、いろいろなアイデアを形にしていった。『強いチームはセオリーどおりでも勝てるが、弱いチームには奇策も必要だ』と言っていたけど、俺たち選手もびっくりするような作戦に出ることもあった。

 画期的だったのは守備。試合では『王シフト』(巨人王貞治が打席に入ると、外野がライト寄りになる)より、さらに細かく大胆な守備シフトを敷いていた。それこそ、今のメジャーみたいなものね。

 右打ちで引っ張りの阪急の長池徳二さんが打席に入ったときは、セカンドなんていらないと外野を4人にしたり、左で同じく引っ張りだけど、ライナー性が多かった近鉄の永淵(洋三)さんのときは、レフトを空けて外野2人で内野を増やしたりね。

 必ずしもデータどおりに打球が行くわけじゃなかったけど、これが嫌らしいところはバッターがいらだったり、人のいないところを狙うと、その選手本来のフォームが崩れたりする。どちらかと言うと、そちらを目的にしてるのかなと思うこともあった。たぶん、あれを巨人がやったら随分話題になったんだろうけど、パ・リーグだから大きな記事になったことはなかったけどね。

 東京教育大でスポーツトレーナーをしてた人をコーチに呼んで、科学的なトレーニングをやったこともあった。最初は俺らも血の気が多い時代だし、野球を知らんやつが偉そうに言うなと思って、『キャッチボールできるようになったら言うこと聞いてやるわ』って言ってたけど、そのあとフリー打撃に投げるようにまでなった。そうなりゃ仕方ない。素直に謝りに行ったよ。

 ブレイザーはメジャーでも名手と言われたセカンドで、野球を知り尽くしたような人だった。阪急のスペンサーもそう。パワーだけの外国人が多かったけど、この2人は違った。

 スペンサーは体でかいし、昔はホームランも打ちまくっていたらしいけど、全盛期は過ぎていたし、バッターとしてはそんなに怖くなかった。

 ただ、この人はクセ盗みの天才でね。投手が振りかぶったときの手首の筋の動きを見て、球種が分かったという。筋が動いたら変化球、動かなかったら真っすぐとかね。それを阪急のほかの選手にも伝えていた。

 野村さんはそれに気づいて、南海のピッチャーには『阪急戦だけは長袖のアンダーシャツを着ろ』と言っていた。俺はノーワイドアップだったから半袖でいいと言われたけどね。

 南海と阪急はそういうガチンコの情報戦もあったんだ。相手の弱点を徹底的に探し、突いてくる野球だね。」

第2章「南海時代」より
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