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逆転野球人生

野村ヤクルトから近鉄へ電撃トレード! 3年後に戦力外もダイエーにテスト入団で劇的な復活を遂げた西村龍次【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

順風満帆にスタートしたプロ野球人生


ヤクルト時代の西村


「子どもの頃からケンカで負けたことはありません。だからプロの打者にも……。ウチにはもっと怖い親父がいましたから」

 かつて入団会見でそんな強気な台詞を口にした若者がいる。広島県・呉市出身のピッチャー西村龍次である。1989年のドラフト会議は、1位で野茂英雄(近鉄)、佐々木主浩(大洋)、佐々岡真司(広島)ら大学・社会人組の投手、下位でも前田智徳(広島)や新庄剛志(阪神)ら高校生野手を輩出した史上最高の豊作年として語られるが、21歳の西村も野村克也監督が就任したばかりのヤクルトから1位指名を受けた。なお、同年2位があの古田敦也である。いわば彼らは野村ヤクルトの一期生だったわけだ。

 名門・広陵高の野球部では金本知憲と同級生だったが、入部して間もなく父親の転勤にともない香川の寒川高に転校。最高成績は2年春の県大会ベスト4も、社会人ヤマハ時代の1年目に都市対抗で優勝して、日本代表入り。その度胸から“右の江夏”と評された右腕は、プロ1年目から10勝を挙げ、1試合5被本塁打での完投勝利(史上2人目)などどんな状況にも物怖じしない強心臓ぶりが話題となった。新人バッテリーを組んだ古田は週べ90年7月30日号で、その試合の西村の投げっぷりをこう評している。

「コイツに限って“逃げ”に入るということはないですからね。あの日(5月13日阪神戦)にしても、球場が狭いのに加え風が強くて誰も投げたくなかったでしょう。それに12点取って楽勝の展開でしたし、どの打者がどの辺が強いのかを探るために、ボクがいろいろな所に投げさせてみたんですよ」

ルーキーイヤーのキャンプで同期の古田[右]とピザをほおばる


 145キロ前後の重いストレートにシュートやスライダー、あとは本人いわく「曲がらないカーブに落ちないフォーク」にもかかわらず、強気の投球と最優秀バッテリーにも輝く古田のリードで2年目には15勝8敗、防御率2.80。リーグ2位の228.1回と投げまくり、15完投、6完封のエース級の活躍を見せる。週べの企画でヤクルトOB松岡弘の直撃を受けると、「(中学時代の同級生だった)女性から手紙が届いたんです。『あなたがプロ野球選手になったことを知りませんでした。何となくテレビで見ていた巨人戦で見覚えのある顔……。“ピッチャー西村”のアナウンスを聞いて、ピンときました』ですって(笑)。これまでは、テレビ放送の開始前にノックアウトされてましたからね」なんつって謎のエピソードを饒舌に語るやんちゃなタッちゃん。

 3年目の92年は開幕投手を任せられ、14勝で野村ヤクルトの初Vに貢献。93年は登板過多による右ヒジ痛に悩まされながらも、11勝で胴上げ投手に。西武との日本シリーズでも2試合に先発して、チームは日本一に輝いた。入団以来4年連続の二ケタ勝利に日本一も経験と、誰もがうらやむ順風満帆なプロ生活である。

野村監督は「西村はパが向いている」


野村監督[左]からは「1球めか2球めのどちらかに、ストライクを投げろ」とアドバイスされた


 しかし、だ。その一方で92年はリーグワーストの12暴投、ときに年間80四死球超えを記録するアバウトな制球力は、野村監督から度々「アイツは投げてみないとわからんなあ」とボヤかれていた。西村は当時の週べインタビューで、ノムさんからのアドバイスをこう明かしている。

「コースを狙うから、フォアボールになるんです。しかし、それ以前に、0-2とか0-3にするのが嫌いみたいですね、ウチの監督は……。ボクがよくいわれるのは、“0-2が多すぎる”。“1球めか2球めのどちらかに、ストライクを投げろ”とかです」

 コントロールミスの死球も多く、94年5月11日の巨人戦ではあの事件が起きる。村田真一に頭部直撃の死球を与えてしまい試合が荒れ、7回表にも再び西村がダン・グラッデンの顔面付近にブラッシュボールを投げて、捕手の中西親志とグラッデンが殴り合う大乱闘の引き金に(グラッデンは両手の指を骨折)。後日、セ・リーグアグリーメントが現代まで続く「頭部顔面死球があれば、投手は即退場」と改められたわけだが、いわば暴れ馬・西村のケンカ投法はルールを変えたのである。

 何の仕事でも結果さえ残せば、自分のやり方を組織から許容される。だが、いざ壁にぶつかると途端に欠点ばかりが目についてしまう。その投球スタイルに加え、打撃や走塁を苦手にしていた背番号29に対して、野村監督がふと「西村はパ・リーグの方が向いているかもしれんな。パでやった方が銭をもうけることができるだろう」と口にしたのもこの頃だ。元ヤクルト同僚の橋上秀樹は自著『野村克也に挑んだ13人のサムライたち』(双葉社新書)の中で、西村についてこう書いた。

「西村はああ見えてよく喋る男だ。ときには「少しは静かにしてろよ」と思うくらいによく喋った。普段は無口な野村監督が、西村のような男を性格的に気に入るわけがない。だが、西村が勝っている間は使い続けた。それは性格の好き嫌いにかかわらず、チームの戦力として計算できたからにほかならない」
 
 94年は5年目にして6勝9敗と初の負け越し。すると、翌95年開幕直前に近鉄の吉井理人とのトレードを告げられるのである。93年まで4年連続二ケタ勝利を記録した26歳元ドラ1右腕の唐突すぎる放出劇。近鉄の鈴木啓示監督が、自身と確執が噂された元最優秀救援投手の吉井を交換要員に持ちかけたトレードだった。

 週べ95年4月10日号の「西村・吉井電撃トレード決定ドタバタ劇の一部始終」リポートによると、実は年明けに成立しかけていたが、西村は「僕は行きたくありません」とはっきりと近鉄行きを拒否。ちなみに95年ドラフト会議で7球団競合した福留孝介(PL学園高)が、クジを引き当てた近鉄入団を拒否したのもこの年の出来事だ。当時はまだ、セ・リーグからパ・リーグへの移籍は都落ちに近い捉え方をされていた。身を削って毎年200イニング近く投げてきたのになんでオレが……焦った西村はユマキャンプで角盈男投手コーチの部屋を訪ね、「僕がトレードに出されるという話が新聞に出ていますが、本当ですか?」と聞き、キャンプ最終日には田口周球団代表から「移籍はない」と異例の説明を受けた。

近鉄では出番に恵まれず


移籍先の近鉄では成績が低迷してしまった


 しかし、3月11日にその球団代表から呼び出され、トレードを通告されるのだ。これには西村も「冷静に考えてみてもわかるでしょう。僕はいろいろな説明をキチンと受けていません」と怒りを露にした。いっそ引退してやろうか……。西村は野球を続けようか、辞めて別の仕事に就こうか1週間近く悩んだという。その間、代表や野村監督との度重なる話し合い、さらには近鉄の鈴木監督から直接説得の電話も入った。こうして3月18日の4度目の話し合いで、ようやくトレードを受け入れる。

 西村は広報を通じて「急な話だったということと、それまでは(トレードが)ないといわれてきたことで、通告された時には気が動転し、すぐには答えが出せませんでした。この時期にトレードをいわれた選手の気持ちもわかってほしかったです」とコメント。野村監督も「彼は優勝に大きく貢献した投手でもあり心苦しい。ただ、あれだけ熱心に誘ってもらって行くのだし、強力打線をバックに投げた方が今よりも稼げるだろう。とってつけたわけじゃなく、西村のためになると思っている」と最後はエールとともに送り出した。

 だが、乗り気じゃない異動を命じられたサラリーマンと同じように、スタート前に揉めた西村は新天地の大阪で苦しむ。移籍1年目の95年はわずか5勝。夏場にチームの成績不振で鈴木監督が休養してから、自身の置かれた立場も変わってしまった。96年はファームで二ケタ勝利を挙げるも、一軍でのチャンスを貰えず0勝に終わり、97年にいたっては一軍からまったく声が掛からず、年間を通して二軍で中継ぎとして1試合に投げたのみだった。

 トレード相手の吉井が新天地の“野村再生工場”で甦り、3年連続二ケタ勝利と活躍したのとは対照的に低迷してしまう。肩やヒジに不安があったのは確かだが、近鉄のブルペン捕手は「気合いの入っているときの西村の球は凄かった。モノが違うという感じ。それは横で投げていたほかのピッチャーも感じていたでしょう」と証言している。要は鈴木前監督が連れてきた西村は、干されたのである。たまらず本人は移籍を志願。97年には在京球団からのトレード話もあったが、交換要員の折り合いがつかず流れた。

ダイエーでは3年連続開幕投手


移籍1年目に10勝を挙げるなどダイエーで見事に復活を果たした


 その秋には自ら退団を申し出て29歳での戦力外通告だ。このまま終わったら悔いが残ると秋季キャンプで阪神や横浜のテストを受けるも不合格。球団関係者からブルペン投球を高く評価する声もあったが、テストの時期が遅くチーム編成はほぼ終わっており、首脳陣はその投球をほとんど見ようともしなかったという。初めからオレを取る気なんかなかったんだろう。せめて今の自分の力をぶつける場所がほしい。いわば西村は投手としての死に場所を探していた。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。最後の挑戦は、王貞治監督が「いつでもいいから、(テストを)受けにきなさい」と人づてに誘ってくれたダイエーの西戸崎球場で懸命に投げた。そして、3球団目の受験で念願の合格通知をもらうのだ。

 プロ9年目、年俸6000万円から1500万円へ大減俸での再出発。98年は春季キャンプから飛ばしてアピールすると、3月20日の古巣ヤクルトとのオープン戦で、「デッドボールに気をつけないといかんな」なんて口撃する野村監督にはあえて試合前は挨拶に行かず、7回5安打無失点投球と結果で黙らせた。開幕直前の右肩炎症でひやりとさせるも、4月15日の福岡ドームで日本ハム戦に先発すると、1失点の完投勝利で935日ぶりの白星をあげ、お立ち台に上がる。週べ98年7月6日号では、その試合で最後の打者を打ち取ったときの心境をこう語った。

「いろいろなことが頭の中に浮かんで来たけど……苦しかったときかなあ。近鉄時代、まったく投げられなかった時のことですね」

 ヤクルト時代のビデオを取り寄せて、近年のフォームは構えたときに前に屈みすぎていたので背筋を伸ばし、ボールを低めに集めるように意識した。この98年は前半戦に一時勝利数と防御率でリーグトップに立つなど、プロ2年目以来のオールスター戦にも選出。5年ぶりの二桁勝利に到達して25試合で10勝10敗、リーグ4位の防御率3.36と先発ローテの中心を担った。自由契約となりテストを受けるためキャンプ地を回っていた男が、その1年後に秋の日米野球でサミー・ソーサと対戦している。まさに30歳での逆転野球人生だ。すでにボロボロの右腕は悲鳴を上げていたが、優勝経験者としてロッカールームでは若いナインたちを鼓舞。ヤクルト時代の92年と93年に続いて、ダイエーでも99年から3年連続で開幕投手を務め、現役ラストイヤーの2001年以外の4シーズンでチームがリーグ制覇する“優勝請負人”ぶりも話題になった。

 なお、西村がカムバック賞に輝いた98年、トレード相手の吉井もFAでメジャー・リーグのメッツへ移籍していた。あの95年開幕直前の電撃移籍劇から3年、結果的に吉井はアメリカで夢をかなえ、西村は最後に辿り着いた福岡でついに復活を遂げたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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