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パンチ佐藤の漢の背中!

野球教室を主宰する元中日・藤井淳志「小中学生にプロの技術を教え、元プロの引退後の受け皿に」/パンチ佐藤の漢の背中!

 

野球以外の仕事で頑張っている元プロ野球選手をパンチ佐藤さんが訪ねる好評連載、今回のゲストは中日ドラゴンズ一筋16年間の現役生活を昨年限りで終えた藤井淳志さん。名古屋で小中学生向けの野球教室を始めたばかりの藤井さんに、パンチさんが鋭く迫りました。
※『ベースボールマガジン』2022年7月号より転載

強豪校に行っていたら野球を辞めていた?


パンチ氏[左]、藤井氏


 強肩好守にして、左右両打席からパンチ力のある打撃を見せた中日の背番号4。藤井淳志さんは昨年限りで現役を引退し、名古屋市内で新たな事業に乗り出した。天白区の幹線道路沿いの3階建てのビルの全フロアを使い、小中学生向けの野球教室「ATSH SPORTS」をこの春オープン。未来のトップアスリートを目指す野球少年たちに、野球の技術の基礎を伝えたい。そんな野望を胸に抱く藤井さんをパンチさんが訪ね、対談はスタートした。

パンチ 愛知県出身なんだよね。愛知県の高校は中京大中京、享栄、東邦、愛工大名電とあるけど、そういうところじゃないんだね。

藤井 僕は地元の公立(豊橋東高)なんです。父親は愛工大名電の“エースで四番”から社会人野球(東邦ガス)に行ったので僕も名電に進みたかったんですけど、「野球を続けるなら、どこの高校に行っても同じだから」と言われ、豊橋東に決めたんです。決めた後に「本当は名電から特待生の話が来ていたけど断った」と父から聞かされました。

パンチ それは、なんで?

藤井 僕が後に大学、社会人になって強豪高校出身のチームメートに話と聞いて思ったのですが、当時は今よりも縦社会が厳しかったじゃないですか。僕の性格上、そういう強豪校に入っていたらぶつかっていたと思うし、野球を辞めた可能性がありました。それを父も分かっていたんじゃないですかね。

パンチ その後は筑波大でしょ。国立だから、一般受験で合格したんだね。

藤井 センター試験を受けました。

パンチ すごいな。

藤井 でも体育学部だったので、センター試験の後の二次試験は実技だけでした。

パンチ と言っても、高3の夏に引退してからは受験勉強したわけでしょう。

藤井 しましたね。野球を続けるにはそうするしかなかったので。滑り止めの私立も受けてないんですよ。願書を出し忘れて……。滑り止めなしに、筑波大一本だったんです。模試の判定では合格の可能性20%以下だったのに。メチャクチャですよね。

パンチ やっぱり、頭が良いんだよ。俺みたいな凡人は、勉強の仕方が分からない。勉強したところがテストに出ないから。それは野球にも通じるね。筑波大はどうだった? 首都大学リーグでしょ。

藤井 あのときの僕は自分を過大評価していたので、結果が伴わないことを受け入れられないもどかしさが、最初はありましたね。本当の意味で自分と向き合って「このままじゃいかんぞ」と思ったのが、3年秋のシーズンが終わったときです。反射神経が良かったので、右打席で右投手のスライダーが来ると、投げられた瞬間によけちゃったんです。これでは上のレベルに行けないなと左打席の猛練習をして、4年生の春からスイッチヒッターになりました。そのおかげで社会人(NTT西日本)に行けたんですよ。

2005年のドラフトで中日に入団した選手たち。中列左端が藤井さん


パンチ 入社してからは、会社の仕事もちゃんとやったの?

藤井 いや、幸いにも配属された部署が「しっかり野球をやってくれ」と理解の深いところでした。ただ、野球の面では僕はそれまで強豪校でやっていなかったこともあり、チームメートのレベルの高さに圧倒されましたね。

パンチ 自信を失った?

藤井 みんな簡単にスタンドに打球を入れるし、これはヤバいぞと。2年間毎日ウエートやっていました。

パンチ チームは強かったでしょ。

藤井 同じドラフトで、僕も含めて5人が指名されましたからね。ジャイアンツに行った脇谷(亮太)とか、オリックスに入った岸田(護)とか。都市対抗に出るのが当たり前という感覚でした。岸田がエースで、僕と一緒に中日に入った齊藤(信介)が抑えです。

パンチ 藤井君はもともと中日志望だったの? 地元のチームだし。

藤井 別の球団が社会人1年目のときから僕を指名してくれると言ってくれていたんですが、3巡目はウエーバーだったので、中日のほうが先だったんですよ。

パンチ それは運命だよ。地元の中日で良かったじゃないの。

藤井 家族は大喜びでしたね。

プロ初打席はバント失敗からの死球


パンチ 「♪一番、誰々塁に出て〜」っていうドラゴンズの歌があるでしょ。

藤井 (歌詞に名前が)出たことありますよ。

パンチ いいねえ! 俺はプロ野球選手になったとき、まずヒットを1本打ちたいな、ホームランを1本打ちたいな、『週刊ベースボール』の表紙になりたいな、テレビの歌合戦に出たいな、という目標があったんだけど、ドラゴンズの選手ならあの歌に出るのは同じでしょう。1年目はどうだった?

藤井 開幕スタメンだったんですよ。

パンチ 最初のキャンプを経験したとき、プロでも行けるなと感じた?

藤井 勝負はできるなと思いましたね。

パンチ 俺は違うんだ。オリックスは外野手の守備力が違った。

藤井 僕は社会人から上位指名で入ったので「通用するから上位指名だったんでしょ」というのがあって、走る、守るは大丈夫だなと甘く思っていましたね。

パンチ イチローがオリックスに入ってきたとき、「パンチさんがプロでやれるなら、俺もやれるわ」と思ったらしいんだよね。それは本当にそうだと思うんだけど、俺はプロ初打席が村田兆治さん(ロッテ)から三振で、「あの人からヒットを打てたらプロでやっていける」と基準が見えたんだ。藤井君の場合はどうだった?

藤井 1年目のキャンプから開幕の頃はガムシャラに過ごしていたので、周囲を見る余裕がなかったんですよ。「やれるだろう」とは思ったのですが練習がものすごくハードでヘトヘトになって、周りと競争している感覚もなく、自分のできることを必死にこなして過ごしていました。

パンチ 1年目は結局どうだったの。

藤井 話にならなかったですね。開幕スタメン(06年3月31日、広島戦=ナゴヤドーム)で使ってもらいましたが、全然ダメで2カードくらい終わったら一、二軍を行ったり来たりで。

パンチ 全然っていうのは、打てなかったの?

藤井 打てなかったですね。開幕投手が広島の黒田(博樹)さんで、僕は二番スタメンだったんですが、一番の荒木(雅博)さんが出塁して、プロ初打席がバントのサインだったんです。バントって、大学、社会人と野球をやってきて、やったことないわけですよ。もちろん練習はしていましたけど。

パンチ 一流のプロの生きた球だからね。

藤井 案の定、ファウル、ファウルで追い込まれ、結局デッドボール。ラッキーでした。初安打は次の日に出たんですけど、そこからは打てなかったですね。

パンチ なんで?

藤井 今は分かるんですけど、オープン戦のときって新戦力に対して、一軍のピッチャーは本気じゃないんです。どこを打てるのかを探っていて、極端な話、抑えなくてもいい。そういうときに僕は勢いで打っていただけで、シーズンが始まったら違った。今なら「こういうふうに追い込まれたらこういうふうに待つ」とか考えるんですけど、当時はただ、来た球を振り回していただけでした。それからは一軍に出ても守備固めみたいな。

パンチ 守備は自信あったんだ。

藤井 でも肩が強すぎて、落合(博満)監督からすれば「あいつはスローイングが安定していない」。オープン戦で見えなかったものが見えてきて、プロのレベルの高さ、壁の厚さを実感したのが僕の1年目のシーズンでしたね。

パンチ 俺も経験あるけど、一軍に上がればテンション上がるし、二軍に行けと言われると下がるじゃない。その気持ちはどうやってコントロールしたの?

藤井 僕は、二軍でプレーするのが恥ずかしいと思ったんですよ。

パンチ 分かるよ。大学、社会人と経験したから、18歳の選手と一緒にやるのはね。

藤井 自分はこんなはずじゃないのにっていう。今思えば、僕は「あいつは生意気だな」と先輩から思われていたんでしょうね。

 スイッチヒッターとして入団した藤井さんは1年目の秋季キャンプで突然、「お前、右だけで打て」と落合監督から声をかけられた。そう言われたら「はい、分かりました」と従うしかない。2年目の春季キャンプでは落合監督に「お前、体力がないよな」と言われ、「いや、あります」と答えたら「じゃあ、マシン相手に3時間打てるか」と聞かれ、「打てます」と答えるしかなかった。それからは17時に全体練習が終わった後、バッティングゲージで3時間の右打席の打撃練習の特訓を連日行うことになったという。右だけで打つようになった結果、打撃技術のポイントを頭の中で整理できるようになった藤井さんはプロ2年目(07年)、一軍に定着できた。

打率.299で突然のシーズン終了


パンチ そこからは順調だったの。

藤井 2年目、3年目と終わってドミニカ共和国のウィンターリーグに参加したんです。あっちの選手はハングリー精神の塊で、みんながユーティリティープレーヤー。守れる場所が多いほうがチャンスが広がるから。そんな中で自分もスイッチヒッターに戻ったほうがいいと。日本にいたときの自分はチャンスを与えられていたし、恵まれていたなとも実感しました。それで4年目(09年)は順調にほぼレギュラーで出たのですが、シーズンの最後(9月6日、横浜戦=新潟)、守備で和田(一浩)さんと交錯して肋骨を4本折りました。

パンチ 大ケガじゃないの。

藤井 あのプレーには伏線がありました。その少し前の試合でフェンスに当たりそうで捕れない打球を処理したら途中交代させられたんです。コーチに理由を聞いたら「捕ろうして追いかけていないと落合監督が言っていた」。それを聞いてカチンと来て、何でも全部捕ってやろうと、本来はレフトに任せてもいい左中間の打球に突っ込んだんです。そしたら、レフトの和田さんとぶつかりました。もっと冷静になっていれば、していなかったケガでしたね。

パンチ 成績を見ると、打率.299だよ。あと1厘、惜しかったね。

藤井 悔しいですよ。あのケガで打率.299に終わり、規定打席にはギリギリ到達できませんでした。翌年以降、レギュラーに定着できれば良かったんですけど、そうならなかったのが僕の甘いところ。そういうのを、落合さんは見破っていました。

パンチ 落合さんはどういう監督だったの?

藤井 野球を本当によくご存じの方で、きちんと人を見ている方でしたね。ただ、選手との距離が遠すぎて、コミュニケーションを取るのは簡単ではなかったです。

パンチ その次の高木守道さんは。

藤井 あまり何か言われた記憶がないですね。当時は外野守備走塁コーチの平野謙さんと話すことのほうが多かったです。

パンチ 落合さんから高木さんに代わって、練習は楽になったの?

藤井 自主的にやることはやっていました。でも、どうしても練習時間が減ることに慣れていきましたね。

パンチ 高木さんの次は。

藤井 谷繁(元信)さんです。最初は選手兼任だったので、近かったです。つい「シゲさん」と呼んで、「俺は監督だぞ」と言われたりして(笑)。

パンチ じゃあ、やりやすかったね。

藤井 やりやすいけど、近すぎてやりにくいってところはありました。

2014年8月5日、豊橋市民球場での広島戦でプロ初のサヨナラ本塁打を放ち、故郷に錦を飾った


パンチ なるほどね。その次は。

藤井 森(繁和)さん。人としても、監督としても好きでした。

パンチ どういうところが。

藤井 選手との距離がちょうど良かったんです。落合さんは遠すぎて、谷繁さんは近すぎた。

パンチ 最後は、俺の(亜大の)後輩の与田(剛)か。

藤井 もう僕はベテランになっていたので若手が優先的に起用され、久しぶりにファームで過ごしましたが、最後の2年間(20、21年)は誰よりも声を出して、一生懸命にやりました。

パンチ そこで腐らなかったのは偉いね。なんで腐らずにやれたの?

藤井 自分が何をできるかと考えたときに、いろいろな人から指導を受けてきた経験を若い選手に伝えるのも大事なことなのかなと思ったんです。

パンチ 引退を決めたきっかけは?

藤井 以前は自分以外の選手が一軍に上がると「自分じゃないのかよ」と悔しかったんですが、次第に喜びを感じるようになっていたんです。「良かったな、頑張ってこい、一軍にしがみついてこい」と。そういう自分に気付いたときに、自分は勝負のステージから降りたんだなと。

パンチ 優しくなっちゃったんだな。

藤井 ふて腐れるのは簡単なんですけど、だったら「40歳に近くになっても二軍で一生懸命やっているんだな」という姿を若手に示さなきゃなと思いました。

パンチ プロでの一番の思い出は?

藤井 僕は豊橋市出身なのですが、少年野球の決勝戦で使う豊橋市民球場という地元の球場があって、そこでドラゴンズが毎年1試合やるんです。

パンチ 地元への凱旋だ。

藤井 本当にそうなんですよ。最初は意識したのか、なかなかヒットが出なかったのですが、14年にサヨナラ本塁打を打って(8月5日、広島戦)、どんちゃん騒ぎ。次の年は僕の誕生日(5月20日)が偶然豊橋での試合で、逆転3ランを打ちました。自分の身内や地元の友達がみんな見ている中で打てたのは、ドラゴンズに入って良かったと思いましたね。

将来の夢は全国展開


パンチ で、去年引退しました。コーチには、ならなかったんだ。

藤井 その前に自分の事業を確立させ、生活の基盤を作りたかったんですよ。

パンチ なぜ、小中学生向けの野球教室にしたの?

藤井 プロになっても、野球の技術のベースって子どもの頃に身についたことが変わらないじゃないですか。

パンチ そうだね。

藤井 そこを将来のプロに教えたいのと、もう一つ。毎年、多くのプロ野球選手が引退します。僕は引退セレモニーもやってもらって恵まれていましたが、他の選手はそうとは限らない。

パンチ 戦力外だと名前が出るだけで終わる人のほうが多いよ。

藤井 セカンドキャリアの就職に困る人も多い。プロ野球という華々しい世界でやってきて、一般企業で働くのもいいですが、全くの新人となり、プロ野球で経験したことが生かされずにゼロになります。それは寂しい。そう考えると、そういう人たちの受け皿を作りたかったんです。子どもたちにもプラスだし、プロ野球を引退した選手たちがコーチになればそちらにもプラスになる。それまでやってきたことを望まれて、伝えれば意義のあることですよ。個人の野球塾ではなく、事業として展開していきたいと思っています。

パンチ すごいな。俺が引退したときは自分のことしか考えていなかったのに(笑)。そうやって、他の選手のセカンドキャリアのことまで考えて。でも、僕も少年野球チームに呼ばれて指導したことがあるけど、それで成果を出すとそのチームの監督が拗ねちゃうんだよね。「もうパンチを呼ぶな」となっちゃう。

藤井 僕はこっちから行くのではなく、指導を受けたい子どもが個人的に習いに来る形なので、少年野球チームとの軋轢はないと思いますよ。

パンチ いや、あるんだよ。あそこの教室に行ったら使わねえぞ、って監督が出てくるよ。

藤井 名古屋はドラゴンズが根付いているので、大丈夫だと思います。

パンチ そこは東京と違うんだな。

藤井 でも、東京だとこういう野球教室は子どもがその友だちを連れてきて広がっていくんですけど、名古屋は違うと言われました。こっちでは逆で、親御さんが自分の子だけ上手になってほしいから広がらないと。だから教育委員会の承認を受けて、近隣の小中学校で全員にチラシを配ったんです。

パンチ 指導者は藤井くん以外、どういう人がいるの。

藤井 今のところ、去年まで中日でコーチをしていた武山(真吾)と、ソフトバンクヤクルトでピッチャーをやっていた山田(大樹)、中日からロッテに行った矢地(健人)。あとはスポットで来られる時間に来てくれる元プロがいてくれれば。

パンチ 手応えはどうですか。

藤井 遠いところから通ってくれる子どもたちもいて、順調ではあると思います。

パンチ 指導方法で気をつけていることはどういうところですか。

藤井 子どもたちを連れてきた親御さんたちが「プロはどういうことを教えているのか」とメチャクチャ気にしているんですよ。子どもたちはもちろんですけど、親御さんとの空気感も大切に、良いコミュニケーションを取りたいですね。

パンチ このビルは持ちビル?

藤井 賃貸です(笑)。内装はかなり変えました。1階が人工芝を張った野球の練習場で、2階はウエートトレーニングで使います。3階は将来的に治療院が入ってほしいですね。

パンチ 将来の夢は。

藤井 この教室が発展して、フランチャイズみたいに広がればいいですね。プロ野球の球団がある各都市に展開できれば、その球団を引退した選手が就職できるし、地元の子どもたちにとってもプラスになります。

パンチの取材後記


 ビシッと直立不動で出迎えてくれて、後頭部を見せながら「初めまして」と挨拶してくれました。この人なら、引退して新しい仕事もうまくやるだろう。それが第一印象でしたね。

 引退して間もないので当たり前ですが、体から良いファイトを発散していました。新しい事業なのでこれから壁にぶつかることがあるかもしれませんが、そうなってもあのエネルギーがあれば真っ正面から壁にぶつかって、突破していけると思います。現役時代もいろいろあったみたいですけど、事業がうまく行ったら笑い話になって楽しく飲めるんですよ。「あの年、こういうことがあって打率.299で終わったんだよな」と。

 この事業を3年、5年と続けて軌道に乗せて、いずれは藤井くんもプロ野球の現場に戻ることがあるでしょう。それからまたここに戻れば、指導者としてさらにパワーアップします。その日のために、頑張ってほしいですね。

●藤井淳志(ふじい・あつし)
1981年5月20日生まれ、愛知県出身。豊橋東高から筑波大、NTT西日本を経て、大学・社会人ドラフト3巡目で06年に中日入団。ルーキーながら同年は「二番・センター」で開幕スタメンを果たす。以後も09年に114試合出場で打率.299、10本塁打、49打点とキャリアハイの成績を残すなど、強肩好守のスイッチヒッターとして活躍した。21年限りで引退。通算成績は1094試合、打率.262、45本塁打、273打点。現在は小中学生向けの野球教室「ATSH SPORTS」(名古屋市天白区植田南2-1114)を主宰。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=落合修一
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