移籍1年目に復活も……
助っ人がトレードの対象となることは決して多くない。契約が切れた、または契約でトラブルとなった、あるいは自由契約となったなどで退団、結果的にチームを移籍することがあっても、これが交換トレードとなれば、その相手も含めて日本人の選手に比べて難しい部分が多いのだろう。そんな貴重な助っ人の1人が
レオン・リー。ロッテを皮切りに、大洋(現在の
DeNA)、ヤクルトの3チームで10年にわたって活躍したスラッガーだ。
兄の
レロン・リーが在籍していたロッテへ入団したのが1978年。長打力に安定感、勝負強さを兼ね備えた打撃は兄と同様で、1年目から打率.316、3年目の80年には打率.340、41本塁打、116打点と打撃3部門でキャリアハイをマークする。このときのパ・リーグは首位打者が兄のレロンで、2位が弟のレオンだった。
だが、来日して初めて打率3割を下回った82年オフ、大洋へ移籍。内野手の
斉藤巧との交換トレードだった。ただ、82年の斉藤は19試合の出場で打率.053、わずか1安打。レギュラーを張っていたレオンとは、さすがに差がある。とはいえ、このトレードは両者にとって、決して失敗ではなかっただろう。斉藤はロッテで捕手に回るなどして、86年には自己最多の102試合に出場した。レオンも移籍1年目から30本塁打、2年目には打率.321と3年ぶりに打率3割を突破して、3年目には打率.303、31本塁打、110打点と圧巻の数字。だが、その85年オフにヤクルトへ移籍する。
このときはトレードではなく自由契約だった。この85年は
高木豊、
加藤博一、
屋鋪要の“スーパーカー・トリオ”が一番から三番に並んだシーズン。四番が多かったレオンは走者がいるときの打率を少し下げていたものの、打撃3部門で大台を突破して解雇されるというのも珍しいだろう。レオンはヤクルト1年目も打率.319、34本塁打、97打点と結果を残す。だが、打率.300と8度目の打率3割を残した87年オフ、ヤクルトも解雇。トラブルメーカーでもなく、それなりに結果を残しながらも、在籍したチームすべてを追われるように去った、という点でも珍しい助っ人だったといえそうだ。
文=犬企画マンホール 写真=BBM