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逆転野球人生

西武黄金時代を支えたいぶし銀・奈良原浩を日本ハム・上田監督がトレード獲得した「本当の理由」とは?【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

ついたあだ名は“コヤジ”


西武時代の奈良原


 決して、派手なスーパースターではない。だが、多くの監督がその男を重宝した。

 球界の“いぶし銀”奈良原浩である。90年ドラフト2位で西武入り。帝京高から専大のセレクションには落ちたが、青学大で成長すると4年春には東都リーグの首位打者と打点王を獲得。全日本学生選抜のショートを守った。合宿所の最寄り綱島駅の構内で売っているシウマイ弁当が好物で、定期券でホームへ入って弁当だけ買って帰るのがささやかな楽しみな青春の日々。身長168cmの小さな身体で堅実な守備は“吉田義男二世”と称され、新人らしからぬ風貌と落ち着きに、西武でついたあだ名は“コヤジ”。一方で相手ベンチのヤジには顔を真っ赤にして怒る強いハートの持ち主でもあった。

 初めてのプロのキャンプで秋山幸二平野謙の強肩に驚き、このままだったら自分なんか1年で終わってしまうと危機感を募らせるも、周囲の評価は高かった。根本陸夫管理部長は「おまえは守備でメシを食える」と褒め、森祇晶監督は「野球センスというかなあ、いいモノを持ってるよ」と背番号9のルーキーを称賛。遊撃のポジションを試合前半は打撃のいい田辺徳雄(あだ名は“オヤジ”)、接戦の終盤はスーパーサブ奈良原で守備固めという起用法を度々見せた。

 当時の西武は黄金期真っ只中だ。奈良原は1年目の91年から70試合に出場するとチームは2年連続の日本一に。オフには先輩の辻発彦に誘われ自主トレに同行すると、貪欲に守備の名手の技術を吸収した。翌92年も当然のように日本一に輝く圧倒的な強さを誇った最強軍団において、奈良原は貴重なバックアッパーとして貢献する。92年秋のパ・リーグ東西対抗では「九番・遊撃」でフル出場。2本の内野安打を含む猛打賞の活躍で優秀選手賞を受賞すると、森監督は「奈良原は、守備の人で終わってもらっては困る選手だからな」とニンマリ。他球団なら十分レギュラーを張れる実力者がベンチに控える。その選手層が常勝西武ライオンズの強みでもあった。
 
 93年には前年の1割台から打率.248まで上昇させ、自己最多の110試合に出場。盗塁も初の二ケタに乗せ、悲願のレギュラー定着に近付くも、翌94年の5月に一塁へ駆け込んだ際転倒して、左鎖骨骨折の重傷を負ってしまう。この怪我で肩の周りの筋肉が落ちてしまい体のバランスが崩れ、復帰後も打撃の感覚に苦しんだ。それでも“和製オジー・スミス”と呼ばれる守備のスペシャリストぶりは健在で、伊原春樹守備走塁コーチは「野球は打つだけが能じゃない。ああいう選手が必要なんだ」と絶大な信頼を寄せた。森祇晶監督や最強ナインが続々とチームを去り、リーグV5を成し遂げた黄金時代は終わりを告げたが、二遊間を高いレベルで守れる背番号9の存在感は増していく。

守備職人に熱い視線をそそぐ監督


その遊撃守備の安定感は抜群だった


 東尾修監督の新チームでも奈良原は95年、96年と2年続けて100試合以上に出場。20代後半で年俸は5000万円近くまで到達し、95年春には結婚して家庭を持った。96年7月18日の日本ハム戦で放った通算863打席目の遅いプロ初アーチが紙面を賑わせ、尊敬する辻の背番号5も継承する。誰もが華やかなスーパースターになれるわけではない。脇役としてチームを支える選手だって勝つためには必要だ。清原和博がFAで巨人に移籍すると、入れ替わるように遊撃手の松井稼頭央というスター候補生が現れる。プロ入り後に野手転向した松井にとって、奈良原はまさに生きた教科書だったと自著『メジャー最終兵器』(双葉社)で語る。

「同じショートで名手と言われる奈良原さんの守備は、溜息が出るほど上手でした。グローブを垂直に置いて、胸の前にすくって投げるんですが、「あれ? いつの間に投げたんやろ」と思うほど動きにスピードがありました。一緒にノックを受けるのが恥ずかしくなるほどでした。でも、奈良原さんの動きを、後ろからじっくり見させていただいて、なんとか少しでも近づけるようにと、真似をさせてもらいました」

 この逸材・松井に加えて、戦国東都リーグ出身の高木浩之という実力派の若い二塁手も台頭してきた。 97年の奈良原は出場100試合を切り、打席数も前年より半減したが、若返った東尾西武はリーグ優勝を達成。29歳の奈良原に求められる仕事は彼らのバックアップだ。組織の中で黙々とひとつの役割をこなす。プロとして、そういう生き方もある。決して満足はしていないが、不満があるわけじゃない。三十路前の中堅のリアルだ。

97年オフ、日本ハムに移籍した


 だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。シーズン中、相手ベンチから熟練の守備職人に熱い視線をそそぐ監督がいた。日本ハムを率いる上田利治である。97年オフ、この年故障に泣き3勝に終わった日本ハムの元エース西崎幸広が事実上の戦力外通告を受け、トレード要員として名前が挙がる。球団側は西武とダイエーの2球団と水面下で交渉を続けてきたが、上田にはどうしても欲しい選手がいた。ライオンズの背番号5である。西武側は交換相手に石井丈裕新谷博と提案してきたが、名将はなんとか奈良原を加えてほしいと強く希望するのだ。その理由をのちに『日本プロ野球トレード大鑑』(ベースボール・マガジン社)のインタビューでこう明かしている。

「彼は職人芸と言っていい内野手でもちろん戦力的な補強でもあるんですが、もう一つ西武の機密事項を知りたかったこともあった。ライバルである西武は攻守にどんな指令を出しているのか、三塁コーチの伊原(春樹)コーチのクセ、仕種の解剖とか、そういうことを奈良原を通じて知りたかった。それもまたトレードの一つの目的でもあるんです」

 要は西武野球の申し子・奈良原のプレーだけでなく、頭脳も欲しがったのだ。「監督というものはチームを“こういうふうにしたい”と決断した時には非情に徹しなければならない時もある。チームのためには“私”を捨てなければならない」とまで勝ちにこだわった上田からしても、悲願のリーグVのためにどうしても必要なピースが29歳の奈良原だったのである。

新天地で初の規定打席


「戦力外通告を受けた時から、日本ハムを叩くためにパ・リーグを希望していた。見返してやりたい。目標10勝のうち8勝は日本ハムから挙げたい。復讐心がないと言えばウソになる」と入団発表で宣言した西崎とは対照的に、石井とともに日本ハムへ移籍した奈良原は「獲得としてよかったと思われるように全力を尽くしたいです。もちろんレギュラーを狙うつもりで頑張ります」とプロ8年目の新天地で静かに前を向いた。西武のぶ厚い選手層でプレーする中で、腐ったら負けだと学んだ。いつ何時も冷静にプレーするその姿に惚れ込み、「彼が取れなかったらトレードは成立せんかったかもしれん」とまで熱烈歓迎した上田監督は、98年シーズンが開幕すると二塁・金子誠の不振、遊撃・田中幸雄の故障でペナント序盤から奈良原を連日スタメン起用する。

 5月に30歳の誕生日を迎え、週べの取材に「昔の方が年上に見られていたんだよ。高校の時から30歳ぐらいに見られていた。高校時代にパスポートを作ったんだけど、髪が七・三分けになっちゃって、これはやばいと思った」なんてコヤジギャグを披露する一方で、6月に入るまで打率3割5分台をキープ。「恥ずかしい話ですが、この年になって初めて夏バテを知りました。だってこんなに疲れるほど、試合に出たことないんですから」と照れ笑いをかます充実の日本ハムでの新生活だ。

日本ハムでも貴重なバイプレーヤーとして力を発揮した[左は下柳剛]


 連戦が続くと疲労から頭で考えていることが、手や足の指先まで伝わらず体が動かない。小さくてがっちりした体格でもない自分が、プロ野球で年間を通して戦う過酷さに驚きながらも、愛妻の手料理でなんとか乗り切った。終わってみれば「規定打席なんて、もう無理だと思っていました」と自身も驚く年間464打席に立ち、自己最多を大きく更新する128試合に出場。打率.280、30盗塁、36犠打と“ビッグバン打線”のつなぎ役を担った。初めて味わうレギュラーで試合に出続ける喜び。それでも古巣西武とのV争いに競り負けると、「悔しいです。見返したい気持ちもありましたが、日本ハムの一員として悔しいです」と激動の1年を振り返った。

 背番号4はその後も日本ハムの貴重なバイプレーヤーとして、歴代の監督たちから頼られ、プロ10年目を終えた2000年オフにはFA宣言して日本ハム残留。3年契約を結び、のちに主将も務めた。

 正直、派手さはない。見栄えのいい豪快な一発とも無縁だ。だが、普通のゴロを確実に処理する積み重ねで、奈良原浩は30代の逆転野球人生を実現させたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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