1月30日、『よみがえる1958年─69年のプロ野球』第1弾、1958年編が発売される。その中の記事を時々掲載します。 『よみがえる1958年─69年のプロ野球』1958年編表紙
日本一のあとの衝撃
プロ野球の歴史を1年1冊で振り返る「よみがえるプロ野球シリーズ」。これまで3年間にわたり1980年代、90年代、70年代をエクストラを含めれば、36冊で振り返ってきたが、2023年の第4シリーズでは、1958年から69年までの12年間を振り返っていく。
資料が少ない時代であり、これまでより多少制作時間が必要になるため、今回は2カ月に1冊で、2024年完結の予定とさせていただくことにした。
今回は1958年編から「西鉄・
三原脩監督の退任騒動」の記事をピックアップしてみたい。
日本シリーズでの3連敗4連勝の興奮冷めやらぬ、11月29日朝、報知新聞が衝撃の記事を伝える。「三原監督辞任を決意 大洋の新監督へ」だ。すでに西鉄には辞意を伝え、大洋にも「円満退社できれば」と伝えているという話だった。
その後の取材で三原脩監督本人は「12月いっぱいまで契約があるので今は何も言えない」と言いながらも「それが終われば、どこの球団に移ろうと、遊ぼうと、あるいは死のうと私の勝手だ」と話し、否定はしなかった。
西鉄球団には「なぜ日本一監督がやめなければいけないのか」と抗議電話が殺到し、騒然とする。明言は避けていた三原監督だが、報道陣の猛烈な取材攻勢もあって、30日夕方になって会見を開く。
「円満退社を望んで秘密裏に進めていたが、もはや隠せなくなった」と語り、辞意は認めた。
理由として、東京にいる家族、糖尿病による健康問題。さらには「3年連続日本一で責任は一応果たした」とも話している。大洋監督就任とは関係なく、ひとまず白紙の状態で辞任したいということだった。
実際には球団への不信感が辞任のきっかけとなった。夏場、南海から11ゲーム引き離され、優勝が絶望視された際、竹井清球団課長から「西鉄本社内で、これは監督の進退問題になるという話が出ています」と言われた。
もともと、東京から流れ着いた自分に対し、面白くないという反対勢力がいるのは分かっていたし、これについてはプロ野球の世界ではやむを得ないと思ったが、次の言葉にカチンときた。
「チームがここまで来たんだから、あなたがいなくてもやっていけるという声が多いんです」
結果的には、これで燃えた三原監督が、自らの気持ちとチームを引き締め直し、奇跡の逆転優勝に導く。そして、祝勝会の席で辞意を西亦次郎社長に伝えると、「それは困る。君を球団重役にすることにしているんだ」と引き留められた。
西社長には言わなかったが、実は、すでに大洋から監督にと誘われ、承諾するつもりでいた。竹井課長との会話のあと、東京遠征で早大の先輩でもある大洋の球団社長・
森茂雄と食事をする機会があり、そこで「そろそろ東京に戻って、ウチの監督をやってくれんか」と言われていたのだ。
密かに大洋の捕手・
土井淳とも会い、水面下では就任の下準備を着々と進めていた。
翌12月1日の朝7時から西社長と3時間の会談後、12時25分から2人そろっての記者会見。報道陣は当然辞任会見と思ったが、西社長からは「三原君に理解してもらい、来季の契約をかわしました」と一転し、留任会見となった。
三原監督としては、ここまでの騒ぎになった以上、1年は残ったほうがいいと判断したようだ。おそらく報知の記事がなければ、辞任、大洋監督就任は、間違いなく、このオフに実現していただろう。
一時、誰が情報を伝えたかが話題になったが、のち三原が監督就任前、自分を切るというウワサを聞いた大洋・
青田昇が「自分を切るなら」という思いから情報を新聞社にリークしたと明かしている。