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【追悼企画】不惑の大砲・門田博光を讃える「フルスイングの魅力を追い求めた男の輝き」

 

2023年1月23日、元南海ほかの門田博光さんが、予定されていた通院治療に現れず、病院が警察に相談。翌24日午前に自宅に警察官が訪ね、その場で死亡が確認された。74歳だった。ここでは門田さんがダイエーで引退を発表したあと、故・田村大五氏[元小社顧問]がペンネームの大道文で寄稿したものを紹介する。[1992年『週刊ベースボール』9月28日号]

全部生きていく喜びに


南海時代の門田さん


 門田博光というホームラン打者にまつわる思い出話を書いてほしいと言われたとき、とっさに脈絡なく、門田選手の口から直接聞いた3つの言葉が閃光のように頭の中を交錯していった。

 ひとつは、「階段をね、ひとつ上がれるようになったとき、体の芯から喜びがわき上がってきた。松葉杖を取って歩けるようになった喜び、そして階段を上がれるようになった喜び。それが全部生きていくことの喜びにつながった」という言葉だ。

 プロ入り10年目、31歳のときのアキレス腱の断裂(1979年春季キャンプ)。つらい闘病生活を乗り越え、戦列に復帰した翌80年。現役時代に3度もアキレス腱を断裂しながら、そのたび戻ってきた元南海・森下整鎮さんを誘い、南海の東京遠征時の宿舎を訪ねた。

「病院のベッドの上で、もう野球選手として再起できないんじゃないか、これからの俺はどうなるんだろう、とグジャグジャつまらないことばかり考えていたとき、森下さんから電話がかかってきて『滅入ってはダメだぞ』と」

 病院の天井のシミまで気になってイライラし、看護婦に「怖い顔」と言われるほどに落ち込んでいた気持ちが、それから前向きになった。

「アキレス腱切断から見事に立ち直った大リーガーの話も聞いた。森下さんの例もある。ようし、俺もやってやろうという気になった。これから同じような挫折に遭うかもしれない若い選手のためにも、ここで自分が頑張れば、若い選手も希望が持てるだろう。大げさでなく、道を拓いてやろうという気になった」

 活字にすると、すらすらと語っているように見えるが、実際はそうではない。時間をかけゆっくりと語り続ける。時にはにかみ、時に苦笑も交え、言葉を選んでいた。

フルスイング


 2つ目の言葉は「内臓がちぎれるほど力いっぱい振り抜きたい」だ。

 しょっちゅう会ったわけではない。シーズンに一度か二度、じっくり話を聞いた。報道陣とはあまり話をしない選手と言われていたようだが、私は「話をしたい」と言って拒否されたことは一度もない。

 昨年、東京・立川のホテルで会ったとき、別れ際、たまたまその直前に会った野球好きの作家の言葉を伝えた。

「門田のフルスイングはいいね。たとえライトフライに終わっても、夜空に浮かぶあの打球を見るだけで、ああ、今日はお金を払ってスタンドに座った甲斐があったと思う」

 そのときの門田のうれそうな顔といったらなかった。あのふくよかな顔がパーッとまろやかな感じになった。そして、いつものボソッとした口調で言った。

「それ、うれしいですね。そういうこと言われるの、ホントうれしい。その人によろしく伝えてください。ありがたいなあ」

 まだ落合博満選手がロッテにいたころ、オフに2人を招いて野球論を聞いたことがある。その席で門田は言った。

「僕がプロ入りしたころ、まだいまのようなパ・リーグ人気なんかなくてね。僕が守っているライトの後ろの外野席なんて数えるほどのお客さんしかいなかった。それも常連でね、ビジターで僕が打つと、なんやかんやヤジを飛ばしてくる。それも強烈なヤジでね。そのたび僕は足で蹴る真似をしてやる。そのヤジに対抗してみせるんです。すると、それを面白がってもっと強烈なヤジがくる。僕のキックも、もっと激しくなる。でも、それがファンとの親密な交流だったな」

 報道陣にそっけないと言われた門田は、右翼席のファンと実のある付き合いを繰り返していたのである。

「今のように観客は多くなかった。ガラガラのスタンドの中で、野球をやっていることにいつか慣れた。そうすると、いつか自分の技術にのめり込んでいくようになる。パ・リーグにいわゆる職人肌と言われる選手が多いのは、そのためじゃないかな」

 落合も「うん、うん」とうなずいていた。

一人旅


 3つめは「オフの一人旅」である。

 毎年、シーズンが終わると行く先を奥さんにも告げず、一人旅に出る。

「山奥にポツンと1軒だけの温泉宿なんかが一番いいんだけど」

 テレビも見ない。1日、ただ、ぼんやりしているのだという。それでシーズン中のあれやこれやをきれいに洗い流す。

「まだ若いころ、北海道のある町で、ふらりと酒場に入ってカウンターで一人で1杯やっていたら、横でサラリーマン風の2人づれがパ・リーグの話をしていた。横に南海の門田がいるなんて気づいてもいない。そのうち僕の名前も出てきた。あれは面白かったな。最後まで僕がそこにいるとは知らないまま。僕も名乗りはしない。一人旅というのは、そんなことがあるから面白い」

 だが、プロ19年目(88年)、40歳のときにホームラン王、打点王。「中年の星」「不惑の大砲」とか言ってテレビや雑誌で何度も特集が組まれた。

「多くの人に顔を知られてしまってから一人旅をやりづらくなった。名前と顔を知られると、どうしても相手が特別な人を見ている感じになる。そうなると本音を聞けなくなってしまう」

 9月4日、球団事務所での引退会見はテレビで見た。

「私はホームラン打者ではないが、入団1年目にすごい外国人選手のパワーを見て、私もあのようになれないかと思った。10年かかろうが20年かかろうが、つくっていきたいとトライしてきた。そこそこの頑固者でないと、そこそこのものは残せない」

 時代を刻んだバットの音はもう聞けないが、その残響音は、こんな言葉に乗って、若い選手に伝わっていくはずだ。

 長い間の一人旅で「もう一度来てみたいな」と思ったところが一カ所あったという。

「北の海を見下ろす、北海道の、ある丘の上」

 ただ、誰にも邪魔されたくないから絶対に場所は教えないという。

「これでゆっくり熟睡できる」

 と言った567本塁打の男は、いまごろ初秋の北海道の丘の上から海を眺め、23年間のフルスイングに、もう一度、思いを馳せているのかもしれない。

PROFILE
かどた・ひろみつ●1948年2月26日生まれ。奈良県出身。左投左打。身長170cm、体重81kg。天理高からクラレ岡山を経てドラフト2位で70年南海入団。翌71年に初の打点王に。79年のキャンプでアキレス腱を断裂も、翌80年には復帰してカムバック賞、その翌81年は初の本塁打王に輝いている。40歳の88年には本塁打王、打点王の打撃2冠。89年にオリックス、91年にダイエーと移り、92年限りで現役引退。通算成績2571試合、2566安打、567本塁打、1678打点、51盗塁、打率.289。2013年1月24日、死去が明らかになった。

文=大道文 写真=BBM
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