元南海-大洋の佐藤道郎氏の書籍『酔いどれの鉄腕』が2月4日にベースボール・マガジン社から発売される。 南海時代は大阪球場を沸かせたクローザーにして、引退後は多くの選手を育て上げた名投手コーチが、恩師・野村克也監督、稲尾和久監督との秘話、現役時代に仲が良かった江本孟紀、門田博光、コーチ時代の落合博満、村田兆治ら、仲間たちと過ごした山あり谷ありのプロ野球人生を語り尽くす一冊だ。 不定期で、その内容の一部を掲載していく連載の今回が第4回である。 なぜ開幕投手で使わなかったか
『酔いどれの鉄腕』表紙
今回は「第4章
ロッテコーチ時代」より、マサカリ投法の大エース・村田兆治(故人)との逸話を紹介する。一部、書籍には収録していない本人よりの追記もある。
ロッテのコーチ2年目の1985年は、ヒジの手術を受けて、長いことリハビリが続いていた村田兆治が本格的に戻ってきた。
兆治はキャンプもオープン戦もずっと調子がよくて、監督の稲尾和久さんからは「ミチ、周りも盛り上がっているし、兆治が開幕投手でいいよな」と言われたけど、「開幕投手となると、あいつも必ず力んじゃうと思うんですよ。それでまた壊しちゃうのは嫌なんで、2試合目じゃダメですか。日曜日だし、ファンも喜びますよ」って言ったんだ。
当時のパは月曜にも試合があって、開幕は土曜だったからね。それで
深沢恵雄、兆治の順に決めて、稲尾さんも「分かった」と言ってくれた。
そのときは雨で試合が流れたけど、兆治は1週間後の日曜日(4月14日
西武戦。川崎)に先発し、シーズン初登板でいきなり完投勝利投手になったんだ。
そのあとトレーナーに「兆治は中5日で行けるかな」って聞いたら、「無理です。6日でお願いします」と言うんで「じゃ、次も日曜な」となって、ずっと日曜登板になった。
そのころ先発と言えば、中4、5日という時代だけどね。
そしたら開幕から11連勝、日曜だけで7連勝よ。確か『サンデースポーツ』という番組がNHKで始まった時期でもあり、そこで『サンデー兆治』と言い出して、一気に大ブームになった。兆治もすごいけど、俺もすごくないかい。だって響きがいいでしょ。
稲尾さんの言うとおり『サタデー兆治』だったら、あんなに騒がれなかったかもしれないよ。誰も言ってくれないから自分で言うけど、ある意味、『サンデー兆治』の生みの親と言ってもいいと思うんだけどな。
……と本には書いてもらったが、実は俺、ずっと開幕は金からの3連戦で、金、土が流れて兆治が日の開幕投手になったと勘違いしていたんだ。お客さんにも「フライデー兆治」が「サンデー兆治」になったんだと言ってね。
編集部が調べて違うと分かったんだけど、思い込みというのは怖いね。
第4章「ロッテコーチ時代」より。