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逆転野球人生

巨人で出番を失い移籍した近鉄・香田勲男が見せた「30代中盤での劇的な進化」とは?【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

運命を変えた新球種


巨人時代の香田


 その投手は、たった1試合で全国区のスター選手となった。

 1989年10月25日、日本シリーズ第4戦で3安打完封勝利を飾った巨人の香田勲男である。近鉄の3連勝で迎えた崖っぷちの一戦で先発マウンドに上がった香田は、80キロ台の超スローカーブを駆使して猛牛打線を抑え込む。前日のお立ち台で加藤哲郎が「まあ大したことなかったですね。もちろんシーズンのほうがよっぽどしんどかったですからね。相手も強いし」なんて発言したことに対して、「このままじゃジャイアンツの名がすたると思って踏ん張りました」と意地を見せた背番号48。ここから巨人は怒りの4連勝で8年ぶりの日本一に輝いた。負けたら終わりの第4戦でエースの斎藤雅樹桑田真澄ではなく、その年7勝の右腕を先発させた藤田元司監督は「香田は右肩を手術して地獄を見ている。そんな香田の耐えた強さにかけた面があった」と理由を明かした。

 香田は83年ドラフト2位でプロ入り。2巡目の池山隆寛(ヤクルト)を抽選で外した巨人は、1位の水野雄仁に続いて高校生投手を指名した。佐世保工高のエースとして甲子園に出場した際には、「1試合勝つごとに、おじいちゃんから1万円もらう約束してるんですよ、エヘ」なんつって笑う九州の逸材は、1年目からイースタンの西武戦でノーヒットノーランを達成。鋭いシュートがウリで“西本二世”と称する声もあった。2年目に一軍で初登板、3年目にはプロ初勝利と順調にステップアップしていくが、持病の右肩の痛みに悩まされ、86年秋にアメリカで手術を受け、任意引退扱いとなり練習生に。翌年はリハビリ生活に明け暮れたが、9月下旬の米教育リーグで復帰登板。試合後に香田はナインから胴上げされ、感極まって涙を流した。

1989年、近鉄との日本シリーズ第4戦で完封勝利を挙げた


 王巨人ラストイヤーの88年は、ヤクルト戦での完封勝利を含む4勝を挙げ手応えを感じていたが、藤田監督が復帰した89年シーズンの5月、阪神セシル・フィルダーに看板直撃の特大アーチを打たれ二軍落ち。ここで、香田はこれまでのカーブを30キロ近く減速させた、タテに大きく曲がり落ちるスローカーブを習得する。

「実はフィルダー対策で必死にマスターしたんです。ドームで左翼のカベにぶち当てられた大ホームランを打たれた。緩い球なら、あそこまで飛ぶことも、まずないですからね」

 当時の週べで手応えを語ったが、この新球種が香田の運命を変えた。打者のアゴは上がりアッパースイングになり、タイミングが狂う。東京ドームのスピードガンは100キロ以下が計測されないため、計測不可能な魔球として話題になった。夏場に一軍再昇格すると、2試合連続完封。さらに日本シリーズでは、第4戦の完封に続き、大一番の第7戦でも先発すると勝利投手に。フィルダー対策の投球スタイルは、パ・リーグ本塁打王のラルフ・ブライアントも6打数無安打と翻弄した。当時の日本シリーズはまさに日本中が注目する国民的行事。わずか数日の間に全国区のスター選手となった香田は、ファン感謝デーでゴールデン・ジャイアンツ賞の車を贈られ、OB会のMVPにも選出。12月には高校時代の文通から始まった愛しの彼女と結婚式を挙げた。世の中の好景気はピークを迎え、新宿ヒルトンホテルで開かれた豪華披露宴で、「親孝行をすることを誓いますか」とドスの効いた声でスピーチを行ったのは“ハマコー”こと浜田幸一衆議院議員である。翌90年には第一子誕生に自身初の二ケタ勝利到達。11勝をマークして、リーグ4位の防御率2.90と25歳の香田はまさに人生の絶頂にいた。

格好のトレード候補に


 しかし、だ。当時の巨人は、斎藤・桑田・槙原の球史に残る三本柱の全盛期。首脳陣は先発ローテを彼ら中心に回し、名古屋遠征中、香田の先発予定が当日の球場に向かうバスの中で通告されることもあったという。92年は0勝に終わり、長嶋茂雄監督が復帰した93年に8勝と復調したかに思えたが、94年は中盤から出番が激減してプルペン待機というケースも増えた。チームは日本一に輝くも、自身の成績は2勝3敗1セーブ、防御率4.46と低迷して敗戦処理のような起用法もされた。その理由を堀内恒夫投手コーチは週べの優勝記念号でこう語る。

「去年は早々に優勝争いから脱落していっただろ。ところが今年は、ずっとトップを走っていて、終盤もキツい展開が続いた。こうなってしまうと、どうしても斎藤、桑田、槙原の3本柱中心のローテーションでいかざるをえなくなる。だから、犠牲になってもらうヤツが出てしまうんだ」

 組織の事情で出番が限られるも二ケタ経験のある29歳右腕、いわば他球団も注目する格好のトレード候補である。堀内コーチが長嶋監督に「香田の働き場所を探してやってください……」と懇願したのは、日本シリーズ終了直後だったという。そして、左投手を求めていたチーム事情もあり、94年11月7日、近鉄の阿波野秀幸との交換トレードが発表される。当然、当時は図抜けた人気球団だった巨人を出されるのに不満がなかったと言えばウソになる。だが、香田にはそれ以上の危機感があった。このままだとオレは終わってしまうという不安である。『元・巨人〜ジャイアンツを去るということ』(矢崎良一/廣済堂文庫)では、移籍決定時の心境をこう明かしている。

「年齢的にピッチャーとしての転換期みたいな時期に、そういう話がきた。だから逆に、前向きに受け止めることができました。巨人で一生懸命やっているんだけど、なかなか数字が残らなくなってきてましたし、自分のなかで「なんとかしなくちゃいけない」という、焦りがあった。その「なんとかする」ためのひとつの方法として、「環境を変えてみるのもいいかな」と考えることができたんです」
 
 まるで転職サイトに登録する志望動機のようなコメントを残しつつ、香田は巨人の宮崎秋季キャンプに自費で向かい、首脳陣やナインに別れの挨拶をして回り、近鉄の球団事務所に入るなり「よろしくお願いします」と深々とお辞儀をした。のちに古巣から複数の選手が移籍してくるが、元・巨人の選手同士で一緒に行動するのは控えようと意識したという。凄い、会社を動く転職時の社会人のふるまいとしては完璧である。

新天地で這い上がる


1995年からは近鉄でプレーした


 だが、新天地で当初は苦労する。移籍1年目はキャンプ中の捻挫で調整が遅れ、勝ち運からも見放されるとわずか2勝。2年目の96年は4試合のみの登板で未勝利。首脳陣の「香田は球威がないから一軍では通用しないのでは」という先入観から、ほとんど干されたような状況だった。それでも香田は腐らなかった。31歳のベテランが二軍のローテをきっちり守り、11勝2敗、防御率1.54で最多勝、最優秀防御率、勝率1位とウエスタンの投手タイトルを独占してみせたのだ。

「ある程度の勝ち星(11勝)が残ったんで、体の面で自信というか、年間を通してやれる体力はまだあるな、と感じたんだ」

 同じく巨人から移籍してきた石毛博史との週べ97年2月10日号の「再会記念」対談で前向きに手応えを口にした香田は、「巨人の投手陣の雰囲気も良かったけど、(近鉄は)巨人の時よりも、ちょっとだけネクタイを緩めてやれるという感じかな」と元同僚の加入を歓迎する。97年の香田はサイパンキャンプで274球を投げ込むなどハイピッチで仕上げ、先発ローテの枠を奪うと気が付けばローテの勝ち頭に。プロ14年目で初のオールスターにも選ばれ、右腕に打球を受けたり、ぎっくり腰に見舞われながらも、9勝4敗、防御率3.69と復活してみせた。

 しかし、プロの世界は上がるまでに時間はかかっても、落ちる時は一瞬だ。翌98年は4勝に終わり、あっさりローテの座を失った。すでに33歳。先発ではほぼ構想外の扱いで、さすがにもう厳しいか……。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。香田は再び敗戦処理から這い上がるのだ。99年は序盤から中継ぎ投手として好投を続け、自らの力でチーム内の序列を上げていく。「必死さが感じられる。香田が崩れそうになるゲームを何とか支えてくれた」と佐々木恭介監督も感謝を口にする背番号12の奮闘。どんな場面でも文句ひとつこぼさず香田は投げ続けた。5月12日のオリックス戦では3イニングを1安打に抑える好救援で巨人時代以来、5年ぶりのセーブをマーク。6月1日の西武戦では1対1の9回にマウンドへ上がり、味方が逆転して約1年ぶりの勝利投手に。この時期の週べに「軟投派から速球派へ珍しい“進化”」という香田のリポート記事があるが、それまで140キロ前後だった球速が5キロ以上増して145キロを計測したことに触れている。

“諦めなかった男”に最後にギフト


 実は香田は近鉄移籍後、巨人ではほとんどやらなかったウエートトレに熱心に取り組むようになっていた。自分に合わないなんて固定観念は捨て、球団を移って違う練習法を知れたと、結果が出ない時期も地道にトレーニングを続け肉体改造。やがて30代中盤で球速が劇的に増したのである。異例のプロ16年目でリリーバーとして再出発。代名詞のスローカーブではなく、勝負どころでは速球で相手をねじ伏せるニュースタイルは周囲を驚かせた。

「昨秋から体の近くで腕を振るフォームに変えたんですよ。それに精神的にも、リリーフだと短いイニングに集中できますから、その場面にアクセル全開で行けるんです。この2つが合わさって、それがいい結果になっているんだと思います」

近鉄が優勝した2001年限りで現役引退。オフのファン感謝デーで胴上げされた


 この年、最下位に沈む投壊状態の近鉄で投げまくり、5勝4敗8セーブ、防御率2.44。55試合の登板はなんとチーム最多だった。練習では黙々とランニングや投げ込みをこなし、試合前には若いナインに「これまでウチは闘争心や腕を振ることをおろそかにしていた。打者にぶつかっていく気持ちが大切なんだ」とゲキを飛ばした。そんな“諦めなかった男”に最後にギフトが贈られる。2001年、36歳の香田は夏場に右肩痛で離脱するも、“いてまえ打線”が爆発して、梨田近鉄は前年最下位から劇的Vを達成するのである。気が付けば、チーム最年長投手として勝利の美酒を味わい、18年間のプロ生活に別れを告げた。

 あの頃、人気絶頂の巨人からトレードされると、出されたことを根に持つ選手も多い中、香田は新天地で思い切って“過去”を脱ぎ捨てた。目の前の“今”を生きたのである。現役晩年、週べのインタビューにこんな言葉を残している。

「あのトレードは、僕にとってすごいプラスになったと思います。あのまま巨人にいたら、今ごろはユニフォームを着ていないと思うんです。それだけ僕自身が、近鉄に来て変わることができたということなんですよ」

文=中溝康隆 写真=BBM
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