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逆転野球人生

世紀の大トレードの“第三の男”橋本武広が西武ブルペンの救世主になれた理由【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

大きな意味を持った記録に残らない熱投


ダイエー時代の橋本


「何でそんな悲しい顔をして投げるの?」

 ダイエー時代の橋本武広は、テレビを見た母親からそう言われたことがあったという。プロ入り後しばらく、哀しみのサウスポー橋本は苦悩の日々を送っていたのだ。アマチュアでの経歴は華々しいものだった。七戸高時代は、青森大会で15奪三振のノーヒットノーランや延長18回で26奪三振を奪う“東北の三振奪取王”として名を売り、プリンスホテルでは創部11年目での初優勝の胴上げ投手になった。なお、会社では1年目にホテルの宴会係を務め、ファンだった阿川泰子のディナーショーを近くで見たり、クロークで大地真央から毛皮を預かったこともあるという。

 この平成元年の60回記念大会の都市対抗野球には、野茂英雄(新日鉄堺)、潮崎哲也(松下電器)、佐々岡真司(NTT中国)、与田剛(NTT東京)らのちにドラフト1位でプロ入りする好投手たちが集結。錚々たる面子の中で、橋本は勝負どころのリリーフで4試合に投げ、15回3分の1を無失点と堂々たる成績で優勝の原動力となり、89年のドラフト3位でダイエー入りする。1位指名の元木大介(上宮高)の入団拒否でチームが揺れる中、田淵幸一新監督も「橋本って子はいいよ。投げるテンポがいい」と25歳の即戦力左腕として期待を寄せた。

 背番号16を与えられた身長167センチの球界イチのチビッ子投手、ドラフト後の年明けに結婚発表とニュースになるも、平和台球場でのオープン戦では巨人駒田徳広に満塁弾を浴びるなど1年目からプロの壁にぶつかってしまう。閉幕間際にプロ初勝利を挙げるも、20試合で1勝5敗、防御率5.57と社会人時代のライバル野茂や潮崎らに大きく水をあけられる。オフの契約更改では推定600万円から20万円ダウンの580万円提示に唖然。当時の週べでは「結局、中止にしました。新婚旅行というムードじゃなかったし」なんつって楽しみにしていたハネムーンを取りやめたことを告白。「近鉄の石井(浩郎)はプリンスホテルのときから同期。その石井が3倍増の2160万円でしょ。やっぱり悔しいです」と雪辱を誓うが、投壊状態のチーム事情から先発、中継ぎと安定しないベンチの起用法に振り回される不運もあった。

 一時は横手投げを試すなど試行錯誤を繰り返すも、91年は1勝、92年は未勝利。20代後半の年齢を考えるといつ整理対象になってもおかしくない立場だ。そんな時にやってきたボスが、根本陸夫新監督だった。根本は橋本をなんとか再生させようと、開幕一軍から漏れたサウスポーを一軍に帯同させる。監督が見つめる中、連日ブルペンで150球も投げ、その後は日課のフリー打撃登板。1日約300球を投げ込むうちに、橋本は「こんなにほうっても、肩もヒジもなんともない。オレの体は強かったんだ」と苦笑い。現場では冗談めかして“アイアン・アーム”(鉄腕)というニックネームがつくほどだったが、のちに橋本のキャリアにおいて、この記録に残らない熱投が大きな意味を持つ。

数合わせに近い扱いで西武へ


1993年オフ、秋山らとの交換トレードで西武へ移籍した[左から橋本、佐々木、村田]


 93年シーズンは20登板で勝ち負けつかなかったが、防御率3.27と前年の5.73から飛躍的に向上させている。ようやくフォームが固まり、投げる体力もついた。30歳を迎える来季こそ勝負の1年……そう思った矢先だった。93年11月16日、“世紀の大トレード”が発表されるのである。西武が秋山幸二渡辺智男内山智之、ダイエーからは佐々木誠村田勝喜、そして橋本武広が動く3対3の大型トレードである。「このチームには軸を打つ選手が必要」と寝業師・根本監督が、九州出身のスーパースター秋山獲得のために、28歳の佐々木だけでなく24歳のエース村田という投打の柱を放出。当時の西武・森祇晶監督は、退任後に週べの連載『心に刃をのせて』でその舞台裏を明かしている。左打者で闘争心のある選手と将来的に投手陣の軸になれる先発を欲しがった西武と、勝てるチームの土台になれる全国区のスター選手が必要だったダイエーの利害が一致したのだと。

「結局、秋山、渡辺智、内山対佐々木、村田のトレードが成立しそうになったが、3対2ではバランスが悪いということで橋本武広をもらうことになった」

 なんと、橋本は数合わせに近い扱いだったのだ。ダイエー4年間で2勝9敗、防御率4.89の29歳左腕。プリンスホテル初Vの功労者の恩情移籍と見る向きすらあった。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。トレードにあたり、橋本は新人の年にプロ初勝利を挙げたときに使用して以来、ここぞの試合で愛用する勝負グラブを押し入れにしまった。新天地ではゼロからのスタートという自分なりのけじめのつけ方だった。当初から大型トレードの“第三の男”と報じられた橋本は、常勝チーム西武のプレッシャーに苦しむ村田とは対照的にその裏で徐々に存在感を増していく。リーグ5連覇を狙う強力投手陣の中で94年前半戦はわずか2試合の登板。しかし、8月になると無失点投球を続け、首脳陣の信頼をつかむのだ。優勝へのカウントダウンとなった9月の11連勝中の6試合に投げ、計6回3分の2をわずか2安打の好リリーフ。杉下茂コーチからは「左打者をどう抑えるかを研究しろ」とだけ言われ、投球フォームは選手個人の意志に任せてくれた。10月7日の古巣ダイエー戦では、2年ぶりのセーブを挙げ、「カウントが不利になっても、自信を持ってスライダーを投げられる」と手応えを口に。22試合で防御率2.86、巨人との日本シリーズでも3試合に投げ、上り調子のまま移籍1年目のシーズンを終えた。

 9年間で8度のリーグ優勝という輝かしい戦績を残した森体制が終わり、東尾修新監督が就任した95年、橋本は春季キャンプから「調子がよすぎて怖いくらい」とキレキレの投球を披露し、「0-3とか、1-3とか、カウントを悪くしても、投げる球がいくらでもある。真っすぐだけでなく、スライダーもカーブも。監督からはそろそろ打たれろ、っていわれている」なんて絶好調宣言。シーズン中は、帰宅したら夫人が録画してくれたビデオをその日のうちに見てチェック。西武首脳陣は先発がへばる夏場に備えて、中継ぎ陣にはシーズン序盤、徹底的に走り込ませたという。そしたら、本当にペナント中盤に出番が激増して、先を見据えた練習の重要性が身に沁みた。

獅子奮迅の投げっぷり


1998年のリーグ優勝時には胴上げ投手になった


「打たれてもせいぜい3割。西武に来てから、そういう風に思えるようになった。ダイエーのころは抑えてやろうという気持ちがはやっていた」

 30歳を過ぎて、考え方にもゆとりが生まれ、落ち着いてマウンドへ。西武黄金期のリリーフ陣“サンフレッチェ”にも勤続疲労が忍び寄っていたが、橋本が獅子奮迅の投げっぷりでそれをカバーした。95年、チーム最多の58試合に投げ、3勝1敗1セーブ、防御率1.94という大躍進を遂げる。翌年以降も「2、3日投げないと逆におかしくなる。そういう体になっている」と頼もしい台詞を口にする背番号34は、ブルペンの大黒柱に。97年にはキャリアハイの68登板で最多ホールドのタイトル獲得。98年のリーグ優勝時には胴上げ投手にもなった。

 週ベのオーロラビジョンコーナーでは、「自分の仕事をはっきり与えられたのがよかった」と首脳陣の起用法に感謝を口にすると同時に、プロ入り間もない頃のダイエー時代の先発経験も生きていると明かす。

「状況を考えて“ここは安打ならまだ大丈夫。次の打者を絶対に抑えれば”と余裕を持って投げられるようになったね。これは先発の考え方なんだけど、中継ぎにも必要な場面もある。若い選手ならガンガンいけというのもあるけど、それだけじゃプロじゃ食っていけない」

 確かに当時は結果が出なかった。でも、それは決して“失敗”ではなかったのだ。あの頃、20万円の減俸に泣いた年俸も1億円が手に届くところまできた。95年から7年連続50試合以上に投げ、そのうち4シーズンで60登板を超えた“アイアン・アーム”は、01年に当時のプロ野球レコードの439試合連続救援登板を記録。晩年は阪神ロッテと渡り歩き、2003年限りで現役引退するときには、39歳になっていた。

 なお、“世紀の大トレード”で移籍した6名の選手のうち、最後まで現役を続けたのは、人数合わせの“第三の男”といわれた橋本武広だった。まさに移籍をきっかけに掴んだ、究極の逆転野球人生である。

文=中溝康隆 写真=BBM
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