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逆転野球人生

「巨人を見返す」とテスト入団したヤクルトで日本一、反骨の右腕・入来智【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

同期の野茂をライバル視


近鉄時代の入来


「自分は野茂より年が1つ上なんだから、いつか必ず追い越してみせる」

 平成元年の秋、ドラフト会議で近鉄から指名された直後に、入来智は力強くそう宣言してみせた。とは言っても、史上最多の8球団競合のドラ1野茂英雄に対して、三菱自動車水島で投げていた自身は6位指名。「ボクの場合は、野茂とは立場が違うんです。ボクにとってオープン戦は一軍に入れるかどうかの“登竜門”ですので、結果がすべて。失敗は許されないのです」とギラつく右腕は、プロ初のキャンプから猛アピールを決意する。評論家の谷沢健一氏は「あの背番号41(入来)、全身がバネという感じだよ。だから、タマのキレがいい」なんて惚れ込み、投球練習中はブルペンから動こうとしなかったという。直球とスライダーのキレは一級品と報じられ、仰木彬監督も「実戦タイプ。思い切りのいいピッチングをする」と評価。オープン戦では2勝を挙げ、開幕一軍入りこそ逃すも、ウエスタン・リーグの90年開幕投手を任され4安打2失点11奪三振の完投勝利。4月12日には早くも一軍昇格を勝ち取った。

 野茂をライバル視する一方で、グラウンドを離れたら同期のトルネードとは仲が良かった。運転免許を持っていない入来は、野茂の愛車ソアラに同乗させてもらい球場入り。球友寮では、みんなでファミコン大会をして盛り上がった。かと思えば、なにかと神経を使うルーキーイヤーには、不眠症に悩まされる一面も。「マウンドに上がると、すごく緊張するんです。急ぎすぎるためにコースを外したりと、あまり考えないで投げてしまう」と漏らす、激情と人懐っこさと繊細さを併せ持つ憎めない男。1年目のウエスタンでは1完封を含む5勝を挙げるも、一軍では7試合に投げ勝ち星なし。秋季キャンプでは同僚選手とケンカになり鉄パイプで殴りかかったトンパチ伝説でスポーツ紙を賑わすが、年明けに結婚して週べの取材を受けると、入来はこんな決意表明をしている。

「とにかく、たくさん勝って、お金を稼ぎたいんです。田舎の宮崎に、ボクの名義で1600坪の土地があるんですよ。野球で稼いで、そこへ大きな家を建てるのが目標なんです。両親や弟ら、みんなで住める家を建てたいと思ってるんです」

 オレには夢がある。飛躍を期した2年目の91年、6月20日の日本ハム戦でプロ初完封、初勝利。1週間後の27日ダイエー戦でも延長10回を投げ切っての4失点完投勝利と、破竹の4連続完投勝利を記録する。ひたすら力で押すピッチングスタイルから、80キロ台のスローカーブを覚え投球に幅が出た。さあローテ定着と思いきや、8月のダイエー戦で門田博光の強烈なピッチャーライナーを右手に受け骨折……。この時点で4勝0敗、防御率2.44と救世主的な活躍だっただけに悔やまれる離脱となった。それでも、翌92年は野茂英雄、小野和義に次ぐ先発三番手として起用され、4月に3勝を挙げ上山オーナー賞を獲得したが、徐々に投球パターンを読まれて勝てなくなりスランプに。やがてローテの谷間の先発と中継ぎの便利屋的な起用法が増えていく。

流浪の果てに便利屋稼業の日々


 鈴木啓示監督が就任した93年には、4日間で三度の先発予定をすべて雨で流し、トリプル・スライドで先発したオリックス戦で5安打完封。「ボールのキレが戻ってきた」と手応えを語るも、10月にはマウンドで肉離れに襲われる。26試合で5勝5敗、防御率3.35。年に何度か目の覚めるような快投を披露するも、1シーズンを通してコンスタントに働けない気持ちのムラと体力面の不安が度々指摘された。そうこうするうちに気が付けば20代後半だ。チャンスの数は目に見えて減っていく。同期の野茂がメジャーリーグでトルネード旋風を巻き起こした95年、入来はルーキーイヤー以来の未勝利に終わった。

96年シーズン途中に広島へ移籍した


 そして、96年6月25日に広島の吉本亮捕手との交換トレードが発表されるわけだ。移籍期限直前での成立の背景には、近鉄捕手陣の故障者続出が関係していた。一・二軍あわせて実質4人しかマスクをかぶれる選手がいなかったため、チーム編成上どうしてもキャッチャー補強が急務だった。そこで、その年一軍での登板機会がない入来が交換相手として移籍することになったのである。広島では移籍後初先発のヤクルト戦で9回に決勝アーチを浴びて敗戦投手となるも、10奪三振の力投。広島市内に自宅も購入して新天地での勝負に懸けたが、96年は0勝3敗の成績で、オフには再び吉本とのUターントレードで近鉄復帰へ。ちなみにこの秋、弟の祐作も、ドラフト1位で巨人に入団した。

 流浪の果てに、また便利屋稼業の日々だ。30歳になった97年に3年ぶりの白星を挙げ、98年序盤は谷間の先発と中継ぎにフル回転。週べ98年6月22日号では、「谷間を埋めた孝行息子」と、日本ハム戦で先発して6回途中2失点で3勝目の入来を「ここまで14試合、30イニングを投げ被本塁打ゼロは立派の一言」と称賛している。だが、またしても後半息切れ。25試合4勝3敗、防御率5.48に終わり、オフに佐藤裕幸との交換トレードで巨人への移籍が発表される。ジャイアンツ史上初の兄弟選手の誕生。二人揃ってのハワイ合同自主トレから、スコアボート表記の「入来兄」「入来弟」までがニュースに。幼少時にG党の兄は、なかなか筆記試験に通らず運転免許を取得できなかったため、弟と同じマンションに住み、球場への行き帰りはすべて弟の車で移動した。そんな入来ブラザーズを「入来のお兄ちゃんは、結構器用なんだよ。中継ぎとしていい仕事をしてくれるはず」と長嶋茂雄監督も評価し、宮崎でのオープン戦では地元出身の兄弟リレーを演出。ふたりも完封リレーでこれに応えた。

巨人からリストラされて


巨人では弟・祐作[右]とチームメートになった


 東京ドームでプロ10年目のリスタートだ。99年4月15日、広島戦で元近鉄の同期入団・石井浩郎の代打逆転サヨナラアーチによって、移籍後初白星をマーク。中継ぎとして5月18日のヤクルト戦で2勝目を挙げるも、翌19日の登板で左太もも裏を肉離れし、長期の戦線離脱。またもや勝負所で故障に見舞われてしまう。さらに巨人2年目の00年序盤、今度は右太ももの肉離れで戦列を離れた。巨大戦力に完全に埋もれる形で二軍生活が続き、ようやく投手コーチから電話が掛かってきたと思ったら、弟と番号を間違えられただけ。もう我慢も限界を越え、練習をボイコットする日もあったという。そして、長嶋巨人が王ダイエーとのONシリーズを制して日本一に輝いた翌日の10月29日、球団からの電話で戦力外を告げられるのだ。そのときの心境を週べ01年8月13日号「野球浪漫」の中でこう明かしている。

「今でも覚えている。優勝して、日本一になったチームから、いらないと言われたんだからね。そうなるとは薄々感じてはいたけど、いざ、そうなると、ものすごい屈辱感に襲われてね。それに、もし自分が必要ないのであれば、もっと早く言ってくれていれば良かったのに、という思いもあった」

 今季一軍登板のない33歳右腕のリストラ。すでに入団テストを終えているチームもあり、NPBでの現役続行の可能性は絶望的かと思われた。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。屈辱の通告から、入来は「打倒・巨人」を掲げてトレーニングに励んだ。オレはこんなもんじゃない。絶対に見返してやる。いつの時代も、怒りは明日へのガソリンだ。ヤクルトの入団テストには間に合うも、約20人の中から合格者は1名の狭き門。緊張から、足の震えが止まらなかった。最後は20代中盤の技巧派サイド右腕と入来が獲得候補に残ったが、ドラフトでサイド右腕をすでに指名していたこと、さらに先発陣の川崎憲次郎がFA宣言をして移籍濃厚だった幸運にも恵まれた。合格通知を勝ち取った入来は、崖っぷちでプロの世界に生き残ったのだ。

宣言通りに巨人を見返す


ヤクルトで真価を発揮して優勝に貢献した


 座右の銘は「気合いに勝る天才無し」。マウンド上で吼え、怒り、感情を爆発させる。ときに浮くこともあった入来の強烈なキャラクターは、ヤクルトの自由でアットホームな雰囲気に合った。キャンプで意気込んで飛ばしに飛ばしていたら、若松勉監督からは「大丈夫か、無理するなよ」と気にかけてもらい、球界最高のキャッチャー古田敦也は、移籍してきた投手の長所を伸ばすよう心がけてリードを組み立てた。「古田さんはすごい。ボクは言われた通りに投げるだけです」なんて語る兄やんだったが、実際は試合中に熱くなってサイン通りに投げないこともしばしば。しかし、古田はそれを涼しい顔で捕球できる技術の持ち主でもあった。周囲に上手く乗せられた入来は、春先のぎっくり腰のアクシデントにもめげず、6月には4勝を挙げ月間MVPを獲得。前半終了時でリーグトップの9勝、同2位の防御率2.41という快進撃を見せ、オールスター戦にも初出場。第1戦の福岡ドームで、先発・入来祐作から二番手・入来智につなぐ史上4組目の兄弟リレーも実現させた。この時、全セを率いるのは長嶋監督である。ミスターは、入来のお兄ちゃんを忘れちゃいなかったのだ。

2001年のオールスターでは兄弟リレーが実現した


 ヤクルトの右のエースとマークされた後半戦は、さすがに息切れして勝ち星から見放されるも、例年のように長期離脱することなくローテを守った。24試合で10勝3敗、防御率2.85と、34歳にして自身初の二桁勝利を記録。巨人を見返すという宣言通り、ヤクルトのリーグVに貢献した。古巣・近鉄との日本シリーズでは、第3戦に先発登板すると、5回2安打1失点で勝利投手に。初めて日本一の美酒を味わい、年俸も1200万円から一気に約3倍増の3800万円へ。3度のトレード経験、そして戦力外通告とテスト入団。文字通りどん底から這い上がったプロ12年目の逆転野球人生に、入来は「夢を見ているようです。ヤクルトに来て良かった」と素直に喜びを口にした。

 なお、この01年シーズンは弟の祐作もキャリアハイの13勝を記録している。実は前年オフに兄が巨人をクビになったとき、「次はオレだ」と危機感を募らせ、もう一度徹底的に体を作り直した。5つ年上のアニキとは、ケンカも多かったが、昔から野球に関しては神様のような存在だったのだ。

 ――入来智、NPB通算214試合、35勝30敗2セーブ、防御率4.25。絶頂期の01年に週べのインタビューで自身を突き動かす原動力をこう熱く語っている。

「ボクが野球にね、なんでこんなに死にもの狂いになっているのかというと、野球を愛している人、ファンの人に対して、「俺は1年でも長く野球をやりたいんだ」っていうところを見せたいなっていうことがあるんですよね。それを内に秘めてやってきましたし、今年だけではなく、来年も再来年も、それを続けていこうと思います」

 その言葉通りに反骨の右腕は、現役晩年は韓国や台湾でも投げ続け、愚直に、誰よりも熱く、最後まで泥臭く、職業プロ野球選手をまっとうしたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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