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逆転野球人生

栗山英樹・29歳の早すぎる現役引退、テスト入団の国立大生が日本代表監督になれた理由【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

注目度が高い“異色のプロ野球選手”


ヤクルト時代の栗山


「キミはいいセンスをしている。もう少しがんばればプロでもやれるぞ」

『プロ野球ニュース』のキャスター佐々木信也氏は、息子が出る大学の練習試合を観戦に行った際、対戦相手で3本のヒットを打った若者に、そう声を掛けたという。その選手こそ、東京学芸大の栗山英樹である。

 投手としては4年間で25勝8敗、投げないときは野手として打率.395をマーク。身長174センチ、体重72キロの小柄な体型だったが、50メートル6秒フラットの俊足と遠投120メートルの強肩の持ち主。しかし、注目度の低い東京新大学リーグ所属のため、ほぼ無名の存在だった。教育学部在籍で教員免許も取得、朝日生命への就職内定も決まっていた。だが、栗山は野球への想いを捨てきれなかった。知り合いを介して西武とヤクルトの入団テストを受け、ヤクルトの合格通知を勝ち取るのだ。とは言っても84年のドラフト外入団で、同期の1位は高野光、2位には池山隆寛らアマ球界のスター選手たちがいた。プロ入りに反対すると思っていた教師の父親は意外にも応援してくれたが、息子を心配する母親に対しては「3年間やらせてくれ」と懸命に説得した。

「国立大出身の異色のプロ野球選手」の注目度は高く、当時の週べでも“国立ボーイ”と報じている。大学の卒論テーマは二か月かけて自ら統計を分析した「高校野球に於けるカウント1-3からのバッティング」で、結論は「塁に出るためには待球がベスト。ヒットの確率より五倍以上も四球の方がいい」だった。将来的な教職とアマ球界の監督の座について聞かれると、「いまは、そんなことは考えていません」とキッパリ。しかし、インテリのプロ野球選手という報道のされ方を、面白く思わない同僚選手も当然出てくる。のちに栗山は自著『育てる力』(宝島社)の中で、チームメイトが「アイツが守るなら投げたくない」と公然と口にしたことを知り、さらには相手ベンチからは「お前、それでもプロか」と野次られた苦悩の新人時代を振り返っている。

アイドル的人気も誇る


現役時代は女性人気も高く、週ベでもオフショットは多かった


 2年目には内野から外野へ転向して、尊敬する若松勉の「お前は右打ちの場合、クセがありすぎる。素直な右打ちをするために、左でも打ってみろ」という助言に従いスイッチヒッターにも挑戦した。すると、3年目に一軍で106試合に出場して、終盤は「一番・右翼」に定着。打率.301、4本塁打と結果を残す。ファンレターは週30通。童顔でギャル人気が高く、少女マンガ誌『週刊少女フレンド』の「ザ・人気者ベスト10」という読者投票コーナーでは、トップアイドル光GENJIの内海光司と大沢樹生と並んで8位タイにランクインしたこともあった。週べ名物「BOX SEAT」コーナーでクリスマスについて聞かれると、「30個ぐらいのプレゼントをもらっています。一番多いのが、ぬいぐるみ」なんつってヒデキ感激。『ベースボールアルバム』の広告コピーは、「栗山せんせい!こんな先生がいたらもう最高!」。アイドル雑誌『週刊明星』で、池山らと“ヤクルト男闘呼組”と特集されたこともある。

 レギュラー定着へさらなる飛躍を期した栗山だったが、4年目の87年1月にアクシデントに襲われる。持病のメニエール病が悪化して、自主トレ中の吐き気と目まいがひどく入院。一時はコーチから野球はもうできないだろうと告げられ、再就職まで考える状態だったが、2週間の入院生活に注射と点滴で症状はなんとか収まり、1か月後にチーム合流を果たす。だが、出遅れと左足ふくらはぎの肉離れが響き、この年は72試合で打率.196と低迷。翌年が勝負だと夏前には寮を出て、東京の郊外に月25万円のローンを組み5000万円の一軒家を買い、2階には素振り用のスイングルームを作った。88年シーズン、バント練習中にファウル・チップが顔面直撃しての鼻骨骨折や自打球を当てての右足骨折と度重なる怪我に悩まされるが、助っ人テリー・ハーパーが途中帰国、前年新人王の荒井幸雄も故障でリタイアとチーム事情にも助けられ、後半戦にはセンターに定着。規定打席にはわずかに足りなかったが、打率.331のハイアベレージを残す。

87年6月には新居を購入。2階には素振り用のスイングルームを作った


 翌89年はメニエール病の再発と戦いながら、初の規定打席到達。俊足を生かした外野守備が評価され、ゴールデン・グラブ賞にも選ばれた。だが、栗山の選手としてのキャリアの終わりは、あまりに唐突に訪れる。長くBクラスに低迷するチームを変えるため、野村克也が監督に就任した90年。背番号4は代打や代走が中心の69試合の出場に終わり、広島へのトレードも噂される中、秋には引退を決意するのだ。週べ89年11月26日号には緊急インタビューが掲載され、栗山は自身の体調が限界に近かったことを告白した。

「今年が大事だと一日一日、悔いのないようにやってきたつもりです。それは肉体的な理由からです。医者にいわせるとボクの体は「20代とは思えないくらい、ガタが来ている」そうなんです。実際、右ヒジ遊離骨の鈍痛で朝の洗顔さえも、ままならないほどでした」

 さらに両足の肉離れは慢性化。メニエール病で、守っていても遠近感がつかめず、体が浮くような感覚に陥ることもあった。野村野球をもっと学びたかったが、体がそれを許さなかったのだ。

「ボクの身上は目一杯の、一生懸命のプレー。でも体調が悪くては集中力が欠如して、いかんともしがたい。きれいごとに聞こえるかもしれませんが、野球が好きだからこそ辞めなければならない、ボクの心情を察してください」

引退後はメディアで活躍


 プロ生活7年、29歳の早すぎる現役引退である。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。引退後の栗山はテレビ朝日『スポーツフロンティア』のメインキャスターを務め、『ニュースステーション』の番組企画で大リーグのトライアウトにも挑戦。週べでコラム「らいんどらいぶ」を連載し、雑誌『Asahiパソコン』では「栗山英樹の大冒険」コーナーで、最新のパソコン事情を学んだ。なお、栗山の監督デビューは94年2月15日号で体験したパソコンの高校野球育成ゲーム『栄冠は君に3』である。母校の学芸大の「現代スポーツ論」で教鞭をとり、96年に東京で開催された「ベースボールトレーナーズ・セミナー」のシンポウジウムにも参加した。メジャー・リーグ好きとしても知られ、日米野球ではゲストの野茂英雄吉井理人とともに解説を務め、『熱闘甲子園』の仕事では若き逸材たちを自分の目で確かめる。野球教室や少年野球大会の開催に奔走し、40代になってからも白鷗大学で経営学部の教授を務めた。

現在は侍ジャパンの監督としてWBCで世界一奪還を目指している


 あらゆることを貪欲に学ぶその姿勢は、やがて日本ハムからの監督オファーへと繋がっていく。根気強く選手を育て、ファンサービスを厭わずできるかどうかというファイターズが監督に求める条件を満たす絶好の人材だったのだ。就任1年目の12年にリーグ優勝。16年には日本一に輝き、計10シーズンに渡り指揮を執った。そして、21年秋にはついに第5回WBCで世界一奪還を掲げる日本代表チームの監督に就任する。

 思えば、国立大出身の小柄な体格で「プロでは無理だ」と野次られた男は監督となり、当初は「プロでは不可能」と周囲から批判された二刀流の大谷翔平を育て上げたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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