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『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1959年編

近鉄パールスを変えたが、ほんとの意味では変えられなかった男、“猛牛”千葉茂監督の就任初年度(中編)/『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1959年編

 

 3月29日、『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第1弾、1959年編が発売された。その中の記事を時々掲載します。

『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1959年編表紙


キャンプで受けた大ショック!


 のちにこの3年を振り返ると、千葉茂は「あり得ないことの連続だった。ワシが巨人で20年間やってきたことがすべてひっくり返された」と振り返る。

 球団創設以来、最高順位が1954年の4位と低迷が続いていた近鉄パールス。前年の58年は29勝97敗4分けで最下位に終わり、パ・リーグのお荷物球団とも言われていた。

 千葉茂監督就任は大きな話題となったが、いくら監督を変えても前年、29勝しかできなかったチームがいきなり強くなるわけではない。

 千葉監督は自らも動き、巨人から内藤博文内野手、阪神から大崎三男投手らを獲得した。しかし、最大のターゲットだった前年首位打者で10年選手として移籍の自由があった阪神の田宮謙次郎、当時有望視されていた外国人選手の獲得に失敗(田宮は大毎に)。その後、ミケンズ投手、ボドラ捕手を獲得したが、千葉監督の思うような補強ができたわけではない。

 今治での春季キャンプは衝撃の連続だったという。千葉監督は選手を見て「なんて覇気がないんだろう。なんて見てくれのいい野球をしたがるんだろうか。まるで若年寄の集まりだ。月給取りが多すぎる」とぼやいた。

「月給取り」というのは、向上心がなく、言われたことをしているだけの選手ということだろう。風呂場にいけば、若いのに腹がたるんだ選手ばかり。千葉監督は彼らに猛練習を課し、厳しい言葉も掛けたが、のれんに腕押し、さっぱり手応えがなかった。

 選手に中には、千葉監督がたびたび巨人を比較材料にすることに対する文句を言う者もいたが、それが反発心に変わるのではなく、内に沈殿し、よどみとなった。千葉監督は自著(『猛牛一代の譜』小社刊)で、こう書いている。

「ここで、吾輩が完全に巨人のイメージを捨てて、つまりアングルを下げて見るべきだったのかもしれませんが、それは吾輩はいさぎよしとしないのであります。巨人軍で鍛え育ってきた吾輩であり、巨人の魂を、そこに植え付けていくのが吾輩が近鉄に乞われた理由でもあるんじゃないか、天下に覇を唱えるためにも、巨人にあるいいものを植え付けようとするのが、吾輩の務めでもあるはず」

 球界の盟主たる巨人出身であるという矜持。そして千葉監督が尊敬する三原脩監督が、西鉄でやってのけた成功例が頭にあったからでもある。田宮獲得もまた、三原監督が青バット・大下弘を獲得し、黄金期の礎の1つとしたことと、だぶらせていたのではないだろうか。

 ただ、千葉が巨人を去った理由は、三原が水原茂(この年は円裕)のチーム復帰で終われるように巨人を去ったことを考えれば似ているようで、かなりゆるい。

 水原の後任として川上哲治と自身を押す二派がゴタゴタしている雰囲気に嫌気がさし、「自分がさえ、ここで引けばマルくおさまることではないか」と、ちょうど熱心に勧誘してくれた近鉄の監督就任を決めたという。

 キャンプが終わったあと、2月28日には日生球場での巨人戦を激励試合として開催。当初は引退試合の予定だったが、ユニフォームが変わった以上、激励試合のほうがふさわしいとなり、2万5000人の大観衆が集まり、千葉監督の門出を祝した。

 シーズン中もそうだが、全国区の知名度を誇る千葉監督の就任がシーズンに入ってからも、日生球場の観客動員を大幅にアップさせることになる。もちろん、それがイコール、実力アップにはならない。この試合も1対10の惨敗。

 千葉監督は「実力差以上にウチの選手が精神的に押されていた。きょうの惨敗がこれから進む険しい道を乗り越えるためのいい試練になるだろう」と語った。
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