週刊ベースボールONLINE

逆転野球人生

戦力外通告を受けた元巨人守護神・広田浩章が「野村再生工場」で復活できた理由とは?【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

89年には強力投手陣でクローザー


巨人時代の広田


 度重なる戦力外通告を受けながら、36歳まで現役投手として生き残った男―――。

 広田浩章は何度も地獄を見た。NTT中国時代は社会人屈指の右腕と注目され、1985年ドラフト会議で巨人から2位指名を受けた。身長176cm、体重71kgと決して大柄ではなかったものの、145キロの直球に、カーブ、シュート、スライダー、そして社会人野球で覚えたナックルと豊富な球種を操る21歳。チームメイトになる宮本和知とは、山口の萩商業高時代に競った同じ64年2月生まれのライバルだった。

85年のドラフトで巨人に指名されて入団。後列左から4人目が広田。前列右はドラフト1位の桑田


 なお、この年の巨人1位は桑田真澄(PL学園)である。KK騒動で揺れたドラフトにおいて、「将来性の桑田、即戦力の広田」と評する声もあったほどだ。しかし週べ86年3月17日号では、即戦力の中継ぎと評価されることに対して、広田は「そういういわれ方は、好きじゃないんです。投手は、やっぱり先発完投ですよ」なんてあくまで先発希望であることを強調している。関本四十四二軍投手コーチからは「気がやさしすぎる。それが投球にも災いしとる。フォームが素直すぎて、おとなしすぎる」と指摘され、童顔からやさしさを失くそうと無精ヒゲを生やしたこともあった。ルーキーイヤーは本人の希望通りファームで先発起用されたが、夢より現実を追い出した2年目の87年からは一軍で中継ぎデビュー。

2年目から3年連続30試合以上に登板するなど、リリーフとして活躍した


 王貞治監督はブルペンに疲れが見え出した夏場の勝負所でよく若い広田を使い、「もし打たれてたら、またあれこれといわれたかもしれないけどね。でもみなさん(報道陣)、広田をその程度の投手だと思ってるの? 少なくともオレは、そう思っちゃいないよ」と高く評価。チームリーダーの中畑清も「いまウチじゃ、一番速いタマを投げる男だぜ、アイツは」なんて絶賛する背番号28は30試合に登板。87年の王巨人のV1に貢献した。私生活では11月に高校時代の同級生と結婚。「おかげで新婚旅行は、優勝旅行に便乗できますからね。給料も少しはあがるだろうし……」なんつってちゃっかりバラ色のオフを満喫。会社員時代の初任給は9万6000円で、いつも同じ服ばかり着ていた若者は、ハングリー精神を忘れず上を目指した。その年から3年連続で30試合以上に投げ、肩痛に悩まされた時期もあったが、89年には8勝1敗11セーブ、防御率2.36という堂々たる成績を残す。8年ぶりの日本一に輝いた藤田元司監督は先発完投を提唱していたため、セーブ数こそ少なかったものの、驚異のチーム防御率2.56、年間69完投という球史に残る強力投手陣において、クローザーを務めたのは広田だった。

ダイエーを経てヤクルトへ


95、96年は王監督率いるダイエーでプレーした


 ローテの谷間での先発や困ったときのロングリリーフと藤田監督は背番号28を重宝する。92年には30試合でプロ入り最多の68回3分の2に投げたが、登板過多からくる疲労は次第に右ヒジに蓄積。長嶋茂雄監督が現場復帰した93年は出番がないまま、7月20日に渡米してジョーブ博士の診察を受け、右ヒジ靱帯断裂で手術を決断する。リハビリに励むも、2シーズンに渡り一軍登板なし。そして、長嶋巨人が初の日本一に輝いた94年オフ、30歳になった広田を待ち受けていたのは戦力外通告だった。ここで救いの手を差し伸べてくれたのは、ダイエーの監督に就任したばかりのプロ入り時の恩師・王貞治だ。しかし、新天地で開幕早々に相手打者の打球が右ヒザに直撃して骨折。「試合中の打球を受けたのだから公傷」と主張する本人と、「認められない」という球団側。不運な怪我でつまずいた広田は2年間でわずか18試合しか登板できず、自身二度目の戦力外通告を受ける。もう32歳。気が付けば、プロで11年もプレーした。そろそろ引き際を考えてもおかしくない頃合いだ。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。

 国内で働き場所がなければ台湾リーグ挑戦も考えたという広田は、ヤクルトの宮崎秋季キャンプに参加して、入団テストを受けるのである。野村克也監督は一目見ただけで、「まだまだ使える。何でダイエーはこんないい投手を手放すんや……」と合格点を与えた。広田は当初、前年の半額以下となるヤクルトからの年俸1000万円の提示に難色を示すものの、すぐ「結果を出して、また稼げばいいんだ」と頭を切り替える。巨人で守護神を務めたプライドだけじゃ飯は食えやしない。プロ12年目の97年シーズン、背番号14を与えられ、古巣・巨人との開幕戦の3番手でマウンドへ。いきなりセットアッパーとして仕事をすると、抑えの伊藤智仁に繋いだ。「右打者にとって一番イヤなのはシュートなんや。あのシュートだけ見て“拾う”価値があると思ったんや」とベンチのノムさんは広田を大事な場面で使い、その気にさせた。

「ピンチでも動じないんや。あの強心臓はウチにいないタイプや。広田と加藤(博人)がおらんかったらと思うとゾッとするよ。今の位置(断トツ首位)におるのもあいつらのお陰や」

 どんな場面でマウンドに上がろうが顔色ひとつ変えず、清原和博(巨人)やパウエル(中日)ら右の強打者の胸元をシュートでえぐる。若い一軍投手陣の中で最年長となる33歳は、週べ97年8月25日号でこんな前向きなコメントを残している。

「もう僕には失うものはありませんからね。こんなに充実したシーズンを送るのはホント久しぶりです。やりがいを与えてくれた監督さんに、感謝しています。年齢は気にしてませんよ。とにかく登板した試合で全力を尽くすだけです」

野村ヤクルトの日本一に貢献


野村監督の下、ヤクルトでも移籍1年目の97年には59試合に登板するなどブルペンを支えた


 そんな充実の97年はチーム2位の59試合に投げまくり、1勝0敗3セーブ、防御率2.71という成績を残す。10月10日の広島戦では自身5年ぶりの勝ち星も転がり込んだ。西武との日本シリーズでも3試合に投げ無失点、野村ヤクルトの日本一に貢献する。広田は復活というより、新天地で進化を遂げキャリアハイの登板数を記録してみせたのである。“野村再生工場”で甦った右腕は翌98年もチーム最多の52試合に登板。開幕直前の腰痛に苦しみ序盤は敗戦処理的な役割をこなすも、やがて結果を出してブルペン内の序列を上げていった。4勝2敗7セーブ、防御率2.56で年俸も5000万円に到達。まさに“ヤクルトのタフマン”だ。

 なぜ30代中盤の広田はヤクルトで、ここまでの好成績を残せたのだろうか? 当時の週べでは球団トレーナーが「広田の場合は間隔を開けて投げるよりも、毎日でも投げた方がいいという肩を持っている。少しでも登板間隔が開くと、肩の周りの筋肉が緩んで調子を落とす傾向にある」と証言。さらにヤクルト移籍後は、投げ方をややスリークオーター気味に変えたことで、右打者の懐をえぐるシュート回転の球を有効に使えるようになったという。加えて球界屈指の名捕手・古田敦也の攻めのリードも投球スタイルに合った。97、98年の2シーズンで計111試合に投げまくった中年の星。35歳で迎えた99年は37登板で防御率2.90も、ブルペン世代交代のチーム事情から三度目の戦力外に。だが、広田は再び近鉄のテストを受け、大幅ダウンの年俸1800万円でのリスタートを選び、プロ15年目の2000年まで現役生活を続けた。

 新人時代は先発にこだわり、20代中盤で巨人のクローザーまで務めた男は、30代になると肩書きやポジションよりも、与えられた場所で自分ができる精一杯の仕事をしようと覚悟を決めた。先発や抑えじゃなくても、中継ぎのエースだって、いや敗戦処理だってチームに必要な仕事さ――。いつの時代も、球児が泥にまみれる甲子園が愛と青春を追う舞台ならば、プロ野球の球場は大人が生活と人生を追う場所だ。前述の週べインタビューで、度重なる戦力外通告にも心折れなかった35歳の広田浩章はこんな印象的な言葉を残している。

「僕は、二度死んだ男だからね。それを忘れずに謙虚にやっていくつもりだよ」

文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング